黒き魔物にくちづけを

「驚いたな……まさか本当に、こんなところにいるとは」

対する相手の反応は、予想していたものよりも落ち着いたものだった。これまでの経験から、激しく動揺するかいきり立って攻撃を仕掛けてくるかのどちらかだと思っていたのだが。

(というか……この声、妙に聞き覚えが)

エレノアは背に隠された体勢のまま、ふと聞こえてきた声に引っ掛かりを覚えた。はっきりとは思い出せないのだが、どこかで聞いた声であるような気がする。……気のせいだろうか?

「何の用だと聞いている。まさか遊びに来たわけではないだろう」

ラザレスは硬い声で、相手に問う。いつ飛び出してもおかしくないように聞こえて、彼女は思わず服の裾を掴んだ。

「ここはお前のような【人間】が、用もなしに立ち入る場所ではない」

彼の言葉は、自分がその人間ではないことを表しているものだ。言いながら、恐らく相手を激しく睨みつけているのであろう。

「……それでは、君は本当に【魔物】なのか?」

少し、間を置いて。相手の、少し戸惑ったような声が返ってきた。その声に敵意は感じられなくて、エレノアの方が戸惑った。

「……何を言っているんだ?あいつは」

ラザレスの方もそれは感じたようで、戸惑ったように呟くのが聞こえた。それから彼はほんの少し振り向いて、エレノアにだけ聞こえる声で、彼女に話しかけた。

「奴の正体も狙いもわからない。何が起こるか見当もつかないから、お前は隠れていろ。良いな」

「え、でも……」

相手に攻撃をしかける気がないのであれば、話し合う時にラザレス一人ではない方が良いのでは。エレノアはそう思って反論しかけたのだが、彼は考えを曲げる気は無いようだった。

「俺が今だと言ったら、すぐに屋敷の中へ走れ。分かったな」
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