黒き魔物にくちづけを
「……わ、かったわよ」
とにかく彼の意思が固いことを悟った彼女は、ここで言い争う局面ではないととりあえず頷く。とりあえず彼の言う通り身を潜めて、様子を窺ってまた戻ればいいだろうと気持ちを切り替えた。
「……そうだと言ったら?」
エレノアに指示を出し終えた彼は、先ほど相手の男が発した本当に魔物なのかという問いに声を大きくして不敵に言い返した。そうしている間も油断なく注意を払い、彼女に合図を出す頃合を探っていることがわかる。
「……そうなのか?」
相手が、半信半疑といった様子で問い返してきた、その時だ。
彼はおもむろに手を持ち上げると、指を笛のような形にして唇に当てた。そのまま細く長い息を吐き──ヒュウ、と、高い音が辺りへ響いた。
途端、ガサゴソ、と音がする。何かが動く気配、そして。
「……!これは……」
相手の男が驚いたように声をあげる。それもそのはずだ──彼は、何匹もの狼に包囲されていたのだから。
そして、それと同時。
「エレノア、今だ!」
ラザレスが、鋭く声をあげる。先程言った、走り出す合図だ。彼女は頷くと、握っていた彼の服の裾を離して走り出した。
振り向くと、いつの間にかビルドは玄関のところにいて、扉を開けて彼女を待っていた。心残りではあったが、こうなってしまっては走るしかない。彼女は走りにくい雪の上を、それでも足早に進んだ。
ざく、ざくと足が雪を散らしていく。扉が一歩ごとに近くなる。あと少しで辿り着く──その時。
「エレノアさん……!?」
予想もしない声──彼女の名前を呼ぶ、少女の高い声が、辺りへ響いた。