黒き魔物にくちづけを
「……え?」
思わず、足が止まる。まさか自分の名前を呼ばれるとは思っていなくて、その一瞬で、思考が飛んでしまっていた。
そのまま走るべきか、振り向いて良いものか──咄嗟の判断が、出来なくなった。辺りの時が、その一瞬固まる。
はじめに動いたのは、ラザレスだった。
「……こいつに何の用だ」
彼は低く唸るようにそう言う。その声に含まれる警戒心が今までよりもさらに強まっているのを感じて、彼女は慌てて振り返った。
「ラザレス、待って……」
「……やっぱり!エレノアさん!エレノアさんですよね?」
振り向いた途端、もう一度響いた嬉しそうな少女の声。彼女の名前は、確かに呼ばれていた。気のせいなどでは、なかった。──彼女の名を知る、数少ない知り合いが、そこにいたのだ。
「セレステ……!?」
思わず視線を上げた彼女は、少し戸惑った様子の魔物の向こう、馬の上にいる男と、その後ろにちょこんと座る少女の姿をとらえる。その見覚えのありすぎる姿に、考える暇もなくその名を呼んでいた。
灰色の髪に、水色の瞳──それは間違いなく、本来なら生贄となるはずであった少女の姿だったのだから。
「良かった!ご無事だったんですね……!」
エレノアが名前を呼んだ途端、少女はぱっと顔を明るくして馬を降りる。それから、呆気にとられる周囲に構わずエレノアの方へ駆け寄った。
「森で魔女を見た言っている人たちを見て、もしかしてと心配していたんです。ご無事な姿を見てほっとしました……!」
雪に足をとられながらも彼女のもとへ寄ったセレステは、明るい表情でそう言う。しばらく顔を見ていなかった友人の姿に気を緩めつつ、エレノアは戸惑った声をあげた。