黒き魔物にくちづけを
【神の森】──それは、エレノアが聞いたことのない言葉だった。この十年ずっとこの大きな森の周りの村や町を転々としてきたし、彼らが住む街へも何度か行っているが、そんな呼ばれ方をしているのを聞いたのは初めてのことだったのだ。どこへいても、森にいるとされるものは魔物やら悪魔やら、不吉なものでしかなかった。神とは真逆のものだったのだ。
傍らではラザレスが小さく頷いている。やはり彼も一番はそれが聞きたかったらしい。
二組の視線に問われ、口を開いたのはハウエルだった。
「【神の森】……確かに、今ではそう呼ぶ者は少ないだろうね。でも、かつてここには神がいた。そう、信じている民族がいたんだ。それでも彼らも信仰を捨て土地を離れ、今ではその民族の子孫が、その存在を知るのみなんだけれどね……例えば、この僕もその一人なんだけれど」
「え?」
エレノアは、瞬きをしてハウエルの顔を見返した。僕もその一人──つまり、この森で神を信じて暮らしていた民族の子孫なのだと、彼はそう言うのか。
彼女の視線を受け、ハウエルはにこりと頷く。そして、もう一度口を開いた。
「僕の祖父母と父がこの森出身でね。父はそうでもなかったのだけど、祖母は信仰に篤かった。若い人間が森の神を信じないようになっても自分の信仰を曲げることなく、森を離れることも最後まで嫌がっていたらしい。僕は幼い頃からその信仰について聞かされてね。森の出身でもないのに、やけに詳しくなってしまったんだ」
森に昔いた神と、それを崇める人々──。その話を聞きながら、エレノアが思い出すのは、いつかラザレスと見た、忘れ去られた神殿の遺跡だった。彼の祖母は、あの神殿を使って儀式を行っていた民族だったのだろうか。