黒き魔物にくちづけを
「式の準備を始めよ」
代表者らしき男の声が聞こえてくる。エレノアは、こっそり顔を上げて辺りを窺った。
そこは、高台だった。森はどうやら、この場所から急斜面で下った先にあるらしい。周りには火を灯すための台のようなものがあるから、ここで行う準備が進められていたらしいことを知る。
すると、エレノアのそばに居た男が唐突にこちらへ屈み込んだ。びっくりして身をすくませると、手足に嵌めていた枷に何やらごそごそと行っている。ほどなく、ガチャリと音をあげてそれは開いた。
「立て」
高圧的な声で命令される。彼女は抵抗せず、俯いたまま立ち上がった。固まっていた膝が折れそうになったけれど、どうにか耐えた。
「腕を後ろにまわせ」
これにも言う通りにすると、先ほど解放されたばかりの手首が今度は縄で縛られた。ぎっちりとしめられた縄が皮膚に食いこんで痛い。
「っ……」
思わず悪態が漏れそうになったけれど、どうにか耐える。そうして抑えた声が自分でも泣き声っぽく聞こえて、どうせなら、とすすり泣いている振りをした。
「降りろ。進め」
端的で威圧的な命令はやまない。エレノアは言う通りにした。
俯いているから足元しか見えないけれど、高台の頂点に向かっていることはわかった。
「もう少しだ……そこだ、止まれ」
声の通りの場所で、足を止める。あと一歩踏み出せば滑り落ちるというような、きわのところだった。
(高さは……まああるわね)
足元から吹き抜けてくる強い風に思わず肝を冷やしながら、それでもしっかり下を覗き込んで、高さを推測する。恐らくではあるけれど、これから彼女はこの、崖とも呼ぶべき急斜面を落ちることになるのだろう。