黒き魔物にくちづけを
ラザレスの態度がほんの少し軟化したことによって、場の雰囲気が和らぐ。けれど、そんな空気は、長くは続かなかった。
ハウエルが、息を吸い込む。何か重大なことをこれから言う、というような動作に、自然と注目が向いた。
彼の唇が、再び開く。
「……つまりね、こういうことだ。ここにいる限りは、君たち魔物は人間の恐れに影響され続ける。噂が流れている今、君たちがすべきことは、噂を放っておくことではなくて──山奥へと、人からなるべく離れた場所へと、移動することだ」
「……え?」
ハウエルの、少し低くなった声が響く。一瞬の静寂を挟んで、戸惑った声をあげたのは、エレノアだった。
「山奥へと、移動……?」
彼の言葉を復唱して、彼女はようやく、自分たちがそもそも街で魔女と魔物の噂が流れていることについて話していたことを思い出した。ハウエルが話した内容に気をとられて、忘れるところだった。
「山奥へ移動……逃げろと言うのか」
ラザレスは苦い表情を浮かべている。それは、そうだろう。彼はここで暮らして長い。事実と関係の無い噂を一方的に流されたせいで住処を手放さなければならないなんて、彼にとっては損害が多すぎる。
「……そうよ。大体、恐れが影響するからって、どうして山奥へ移動なんて……」
彼を援護しようと口を開いたエレノアは、しかしそこで言葉を詰まらせた。『どうして山奥へ移動しなければならないのか』、という問いへの答えに、彼女が自分で気付いてしまったからだ。
(……七年前、ラザレスがここに来た時。『翼が生えた魔物がいる』と信じられていた力が働いて、ラザレスに翼が生えた。だとしたら、噂によって魔物への恐れが広まっている今は?……同じことが、また起こってしまう、ということ?)