黒き魔物にくちづけを
彼がそもそも何故あんな話を始めたのかの理由に気付いたエレノアは、黙り込んでしまう。そんな彼女に、ハウエルが語りかけるように口を開いた。
「……魔物殿が昔、噂によって翼が生えるという経験をしている以上、また同じようなことが起こるものと考えた方がいい。今急激に広まっている噂が現実になる確率が高いんだ。君が今の君のままでいるためには、一刻も早く人間から離れて、森の奥へ行くべきだと、僕は思う」
「…………」
エレノアも、ラザレスも、黙ったまま何も答えなかった。答えることが、出来なかった。
一度起こっていることが、二度は起こらないなどという確証はどこにもない。しかもそれは、ラザレスがどうにかすることで防ぐことの出来ないものなのだ。防ぐためには森の奥へ逃げるしかないと──そんな気がしてくる。
今流れている噂──それは、『魔物が人間を襲って喰らう』、というものだ。
(ラザレスが、人を食うかもしれない……?)
そう考えると、背筋が冷たいものを伝う心地がした。そんなことが起こるときには、彼はきっと彼ではなくなってしまう。そんなことは嫌だと、エレノアは強く思った。
そうは思っても──わかりましたそうしますと、すぐに決断できるものではない。そもそも決めるのは本人であるラザレスで、エレノアではないのだし。
二人とも、何も答えない。そうしているうちに、ハウエルがまた話し始めた。
「……そもそもこの辺りは、君ほどの魔物が暮らすには人間から近すぎる。僕のような鍛えてもいない人間が訪ねてこれるような場所に住む魔物は滅多にいないよ。険しい岩山の途中とか、切り立った崖だとか、そういうところに暮らしている場合が多いらしいからね。だから驚いたんだ。こんな場所に魔物が暮らしているのかと。……君、こんなに人間の近くで暮らしていて、生活に支障はないのかい?」