黒き魔物にくちづけを

少なくとも十年前には、もう彼はラザレスという名前をもっていたことになる。その前のことは、分からないけれど。

「……そうか。いや、実はね。誰かや何かに【名前】をつける存在は、"人"と"神"だけなんだ。もちろん、人が動物に名前をつけることはあるよね。けれど動物が、自ら名を名乗ることはない。魔物も一緒なんだ。彼ら人ならざるものの文化の中に名前は存在しない。僕も色々な文献を読んだけれど、自ら名乗る魔物がいたという例は無い。だから彼の名前があるとすれば、人間である誰かにつけてもらったことになる。……意外だな。君と暮らすようになったから、君がつけた名前なのかと思ったんだけど」

「そう……なの」

【魔物は名前をもたない】、そう言われても、いまいちエレノアにはぴんとこなかった。だってラザレスははじめからラザレスだったし、彼だって……。

(……あ)

けれど、そこでエレノアは思い出した。確かにラザレスは名乗るし、呼びかけにも反応するけれど。何かに名前をつけたところは、一度も見たことがない。

彼を慕う、群れの狼達。あんだけいるのだから個体に名前をつけて区別してもいいはずなのに、彼はそれをしていない。『グラウ』と名前をつけたのは、やはり人間であるエレノアだ。

エレノアは特に考えもせず、毎日顔を合わせるのだから便利だろうと名前をつけた。けれど彼は、エレノアよりもずっと長く付き合っているはずなのにそうしない。そこが、もしかしたら魔物と人の違いなのだろうか。
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