黒き魔物にくちづけを
「ちょ、何するの……!?」
ぎょっとした彼女は男の顔を見上げるが、彼は応じることなく手を動かし続ける。よく見るとラザレスが手に持っているのは、先ほどセレステたちに貸した馬を留めておくロープだった。彼はそれで、エレノアの手首とテーブルの脚を固定しているのだ。
(こんなことになるのならさっさとしまっておけば良かった……!)
うっかり出しっぱなしにしていた自分の迂闊さを恨みつつ、空いている左手で彼の作業を妨害しようと試みた。けれどとっくに結び終わったらしいラザレス本人にあっさりその手も捕まって、そのまま至近距離で目を合わせられた。
「すまない。でもお前のことだからこうでもしないと追ってくるだろう。帰ったら外すから、しばらくここで大人しくしていてくれ。すぐ片付けて戻ってくるから」
「追わないわよ……」
それほど信用がないのかと半ば呆れつつそう言うけれど、彼はそのまま立ち上がって部屋の扉の方へ向かってしまう。いよいよ行ってしまうと悟った彼女は、その背中に向かって声を張り上げた。
「ラザレス!あなたが私を守りたいと思ってくれているのと同じように、私だってあなたに怪我してほしくないんだから、無事に帰ってきなさいよ!」
「……わかった」
彼は振り返りはしなかったが、一応そう返してくれた。その直後、バタンと音を立てて扉が閉じられる。すぐに、玄関の扉が開閉する音も聞こえてきた。
「…………」
彼は行ってしまった。エレノア一人を屋敷に、文字通り縛り付けたまま。
「全く……帰ってきたら正座して謝ってもらわなきゃ」
誰もいない部屋に、彼女の呟きが響く。ビルドが見たら大声で騒ぎ出しそうな様相だが、生憎そのカラスの姿も見られなかった。多分、ラザレスと共に人間達のもとに向かっているのだろう。
石造りのテーブルはそれなりに重く、脚を持ち上げて縄を抜かすことは難しい。空いている左手で一応縄をいじってはみるものの、存外しっかりと結ばれたそれを解くことは難しそうだった。頑張ればどうにか出来なくもなさそうだけれど、大した害もないしラザレスが戻ってきたら解いてもらえるだろうしとどうにもその気になれず、結局手を離して息を吐き出した。