黒き魔物にくちづけを
「……っ、違う、何を考えているの私は」

どうしても脳裏にちらつく『最悪』の事態を、彼女は声を出すことで追い出した。

(……落ち着きなさい、エレノア。私がここで焦ったって、どうにもならないじゃない……!)

とにもかくにも、落ち着かなければ。エレノアはかたく目を瞑ると、左手を胸にあてる。そのまま深く息を吸い込み、吐き出した。手に伝わる鼓動の音を聞いて、また深呼吸を繰り返して──。何度かそれを繰り返す頃には、ようやく少しは冷静さを取り戻していた。

「……大丈夫、大丈夫よ。狼たちもついているし、その気になれば他の魔物だってあの人の味方をしてくれるわ。きっと戻ってくる。セレステのところの薬だってあるもの。……大丈夫に決まっているわ」

敢えて口に出しながらそう確認して、彼女はようやく目を開けた。──少し震えた声については、気にしないことにした。

とにかく、何が起こっているのか知りたい。約束を破って外へ様子を見に行くなんてことはするつもりはないが、せめて窓から外を見るくらいはしたい──と、彼女が右手を縛める縄に手をかけた時のことだった。

ギィィィ、と、静かな空間に、扉が開く音が響いた。

(えっ……!?)

弾かれたように彼女は顔を上げ、はっと呼吸を殺した。気のせいでないとすれば、今のは玄関の扉が開いた音だ。誰がそうしたのかは──わからない。

(どういうこと……!?)

彼らは、ラザレスは、まだ戦っているのではなかったか。となれば、屋敷の前にいるのは、一体誰なのか?

どうか音は気のせいであってほしい、そう、彼女が祈った瞬間。それを嘲笑うかのように、ギイ、ギイとゆっくりとした足音が響き始めた。

間違いない、誰かが──屋敷の中に、入ってきたのだ。

(誰……? まさか、やってきた人間……!?)

隠れようにも、手を縛められた状態ではどうにもならない。どうか戻ってくれと息を潜めた彼女が必死に祈る間も、足音はこちらに近付いてくる。

(ラザレス……!)

いよいよ足音がすぐそこ、扉一枚隔てた場所まで迫ったとき、彼女は無意識のうちに"彼"の名前を心中で叫んで、ぎゅっと瞼を閉じた。

──次の刹那、勢いよく部屋の扉が開かれた。
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