黒き魔物にくちづけを
「……っ!」
バタン、と音を立てて開かれた扉。その向こうを、エレノアは息を呑んで、それでも目を開けて凝視した。
そこに立っていたのは──どこか濁った視線をこちらへと向ける、前かがみのような体勢で立つ、男。
「……え……?」
エレノアの喉から、間抜けな声が漏れる。それと同時、【侵入者】が一歩、足をこちらに踏み出した。けれど彼女は、暴れも叫びもしなかった。──何故なら、その人は。
「……ラザ……レス……?」
黒い髪に、銀色の瞳。よく見知ったかの人物の名前を呼ぶと同時、ほっと肩から力が抜ける。張りつめていた緊張の糸が一気に弛んで、思わず大きく息を吐き出した。
安心した。もし、来たのが彼では無かったなら、エレノアは身を隠すことすら構わずにその者に嬲られていたかもしれないのだ。さらに、はからずもあんなに知りたかったラザレスの安否も確認することが出来たのだから、安堵の息も出るものである。悲鳴が聞こえた時は何があったのかと取り乱したが……にしても、予想よりもかなり早い帰りだ。
「……よ、良かった……。人間だったらどうしようかと思ったわ。それにしても、早かったけどもう終わったの?何が起こっていたの?」
ほっとしたエレノアは、聞きたいことを立て続けに訊ねる。けれどその問いへの返事よりも早く、鳴り響いたのはぎしりという床が軋んだ音だ。ラザレスが、足をこちらに踏み出した音。
「……ラザレス?」
──その時初めてエレノアは、彼の様子がどこかおかしいことに気が付いた。
先程から、一言も発さないのだ。エレノアを見ても、入ってきても、彼女に声をかけられても。足取りだっておぼつかないし、背中はいつになく丸まっている。まるで、獲物を前にした獣のように。