黒き魔物にくちづけを
そこにいるのは間違いなくラザレスだ。そのはずだ。けれど何より──彼女を見つめる瞳が、違う。
いつもの、真ん中にエレノアを据えて、優しく包み込むような柔らかい瞳ではなかった。今彼女に向いているのは、もっとどろりとした、濁ったそれだ。
唐突に彼女の鼻を、錆びた鉄の臭いが刺した。はっとしてラザレスの身体をくまなく見渡すと、黒い衣のところどころに、別の質感の黒で染められている部分を見つけられた。
「ラザレス……怪我してるの?」
また一歩こちらへと近付いた彼からさらなる血の臭いを感じ、エレノアは彼を見上げて問いかける。近くで見ると、服の上からでもその凄惨な様子が分かり、エレノアは息を呑んだ。切られたところからは血の滲んだ肌が露出し、銃弾の痕のようなものさえ見られた。
「ひどい……ちょっと、手当するから服脱いで、見せ……っ!?」
言い募るエレノアの言葉が、中途半端に途切れる。ラザレスの手がこちらに伸びたのが見えて、すぐに後頭部に衝撃を感じ──気付いた時には、すぐ目の前に銀色が浮かんでいた。
押し倒された、と気付いたのは、一拍おいてからだった。エレノアの目の前にまで近付いたラザレスは、無言のまま彼女の上に覆いかぶさったのだ。
「ラザレス……?」
自分を見下ろす男の名を、エレノアは呆然と呼ぶ。いつもはあれほど雄弁に感情をたたえた銀の瞳に、今は何の色も浮かんではいなかった。人ならざる者であることを示す花の形の瞳孔が、彼女を至近距離でとらえてすっと小さくなった。
ぱたり、と頬に温かいものが落ちる。その正体は──血だった。彼の顔に出来た、まだ塞がってはいない傷が、赤い雨を彼女に降らせている。