黒き魔物にくちづけを
「……血、」
と、それまで押し黙っていたラザレスが、唐突に口を開く。血、と、確かに彼はそう言った。
え、とエレノアは聞き返そうとした。けれどそれよりも早く顔が近付いて──何か熱いものが、彼女の肌を這う。
ぞわり、と総毛立った。ラザレスが血を舐める──そのことが、何かとても良くないことのように感じられて。
「……違う」
それだけでは、終わらなかった。彼女の頬の血を舐めた彼がぽつりとそう呟くのを、彼女は聞いてしまった。
何が違うのか、彼女には分からない。けれどラザレスの右手が彼女の頬に伸ばされた瞬間、猛烈なほどの嫌な予感に突き動かされて彼女は激しく身をよじった。
「……っや!」
必死に身体をばたつかせ、自分の左手で男の手を振り払う。けれども魔物と人の女の体格差は埋められず、のしかかる男の身体はびくともしない。鬱陶しげに眉を寄せた男に左手を掴まれてしまうと、右手を縛められている彼女は完全に床に縫い付けられた形となった。
手を掴んでいるのと反対の手で、乱雑に顎を掴まれ、そのまま無理やり左側を向かされた。皮膚に食いこむ指の感触と容赦のない力加減に息が詰まった。
「っ……」
何か鋭いもの──魔物の爪が、彼女の右頬をなぞるように掻いていく。痛くて、わけがわからなくて、彼女の目に生理的な涙が滲んだ。
そんなエレノアに一切構わず、男は彼女の傷口に──そこに滲んだ血に、唇を近付ける。そして顎を掴んだまま、再び彼女の傷口に舌を這わせた。
エレノアはぎゅっと目を瞑る。傷口に容赦のない舌の感触が滲みて痛かったが、声をあげないように耐えた。
前にも傷口を舐められたことは、ある。けれどあの時とは何もかもが違った。あの時はこんなに、蹂躙されるような感触ではなかった。今の彼は──まるで別人、いや、別の魔物のようだった。
唇を離した男が、ようやく彼女の顎を解放する。視線を向けると、こちらを見下ろす濁った銀色と目が合った。
「……うま、い」
──そしてその瞬間、魔物は恍惚とした表情でそう言って、ニタリと微笑んだのだ。