黒き魔物にくちづけを

「……!」

その顔を、声を聞いて、エレノアは衝撃を受ける。【魔物のよう】、などではない。今目の前にいる彼は、魔物そのものだった。人の肉を求め血を啜る、理性をなくした凶悪な魔物であった。そこにいる男が、【ラザレス】であるはずが無かった。

どうして、何故。エレノアのラザレスは、どこへ行ってしまったのか。

『魔物は特に人々の心の中でも特に恐れに影響を受けやすいんだ。受けた恐れを、鏡のように映すこともある』

『"人間を憎む魔女の使い魔である黒い獣が、人を襲って食らう"……と』

今日の昼、セレステとハウエルに聞いた話が蘇った。あの研究者と名乗る青年は、恐れの影響を受けた魔物は、その恐れの通りに性質を変容させることがあると言っていた。それが正しいなら──

(人を、襲って食らう魔物……)

もし、そうなってしまうとしたら……いや、もうなってしまった、のだろうか。

エレノアの知る、不器用で少し残念で、けれど優しいラザレスでは、無くなってしまった、ということ?

目の前で血の味に笑む彼は、どう見たって魔物の容貌をしていた。彼女のよく知るひとは、そこにはいなかった。──彼は、ラザレスは、もう消えてしまったの?

「……っ!」

想像したら、心が冷えていくようだった。あのひとともう二度と会えない、もう、どこにもいないだなんて、そんな。

やっと掴んだ光明を、失ってしまったようだった。末端から冷えていく指が、知らぬ間に震えていた。まるで、手負いの動物が怯えるように。

(嫌……)

よう、ではなかった。彼女が感じているのは確かに怯えだった──恐れだった。

記憶と一緒に恐怖という感情を欠落させているはずの彼女が、たった一人の愛しい人を失うことを恐怖していた。初めて、怖いという感情を抱いたのだ。

エレノアの様子に構うことなく、笑んだままの男はまた傷口をなぶる。けれど、小さな傷口に滲み出た血では足りなかったのだろうか。不満げに鼻を鳴らすと、今度はエレノアの喉のあたりに口を近付けた。──鋭くとがった牙を、喉笛を噛みちぎるためとでも言うように、剥き出しにして。
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