黒き魔物にくちづけを
どのくらい、時間が経っただろうか。突き飛ばされることも、唇に牙を立てられることもなかった。その代わりに、男の身体からは段々と力が抜けていって、そのうちエレノアの背中には縋るように彼の手が添えられていた。
「……ラザレス?」
唇を離したエレノアは、ぼんやりとしている彼の瞳を覗き込んで声をかける。彼の双眸が、さまようように彼女の顔を這い、ゆっくりとその姿をとらえた。
先程まで漲っていた獣性は感じられなくなっていた。薄ら氷のような色をした、微睡みから覚めたような瞳。
「エレ……ノア……」
ゆっくりと唇が開いて、確かめるように彼女の名前が紡がれる。
そこに魔物の姿はもう無く、いたのは、彼女のよく知るラザレスの姿だった。
「ラザレス……!」
ああ、彼は戻ってきた。ちゃんと、エレノアの知るラザレスだ。そう悟ったエレノアは、ほっと安堵してそう呼びかける。けれどそれと同時、まるで糸が切れたように、ラザレスの身体から力が抜けた。
「え……ちょっと?」
ドサリ、音を立てて、彼の身体が彼女の上にのしかかる。完全に力の抜けた彼の身体は予想以上に重くて、油断していたエレノアは再び背中を床にぶつけた。
「ラザレス?……ラザレス?」
戸惑いがちにエレノアが声をかけるも、ラザレスは反応を返さない。その代わりに耳に届いたのは彼の苦しそうな呼吸の音で、彼女はその時初めて、ラザレスが全身に脂汗をかいていることに気がついた。
嗚呼、そうだ。ラザレスは、怪我をしていた。鼻には相変わらず強い血の臭いがつくし、なんとか上半身を持ち上げて肩越しに彼の身体を見下ろすと、裂けた衣服──そして恐らくはその下の身体も──が目に入った。
その時、入口の方から小さな物音がする。バサリという羽音は、その音をたてたのが誰かを伝えていた。
「えーのあ!ブジ?」
騒がしく部屋の中に入ってきたのは予想通りビルドだ。カラスは部屋の真ん中でラザレスの下敷きになっているエレノアを見て目を丸くすると、すぐにその傍にとまった。
「……つぶさレタ?」
身動きのとれないエレノアを見下ろしたビルドは、いまいち緊張感に欠けた声でそう呟く。エレノアはその空気感を無視して、声をあげた。
「ビルド、ラザレスの手当をしなきゃいけないの。ちょっとこの縄を解いてくれない?」