黒き魔物にくちづけを
ビルドの言葉につられて、彼女は先ほどのことを思い出す。一切の言葉が通じず、エレノアを傷付けて血を啜る姿は、本当に魔物そのもので──
「……怖かったわ」
様子をまざまざと思い出し、その時の感情を思い出したエレノアは、無意識のうちにそう呟いていた。
「ラザレスが知らない魔物みたいで、もう、元には戻らないような気がして……怖かったわ」
エレノアはぎゅっと拳を握りしめる。生まれて初めて──かどうかは分からないが、記憶のある限りで初めて感じた、心の底が凍るような感触。恐怖という感情が、あんなにも悍ましいものだとは知らなかった。
「……なのにえーのあは、かしらのケガ、ナオシタの??」
黙って聞いていたビルドが、いつになく真面目な様子で声をあげる。エレノアはその言葉に、小さく首をかしげた。
「当たり前じゃない。そこまで狭量じゃないわよ」
「ケガ、させられたのに?……かしら、コワイんじゃナイの?」
「……」
ようやくエレノアは、ビルドの問いの意味を理解した。ラザレスに恐怖を──生まれて初めての味わうほどの恐怖を与えられたのに、逃げ出さなかったのは何故か、と問うているのだ。
「……そうよ。だって私、怪我をさせられたから怖かったのではないのだもの。だって、死ぬつもりで森に来たのよ?このくらいの怪我なんて怪我のうちに入らないわ。そうじゃなくて……私が知るあの人がいなくなってしまうことが、怖かったの。だから、逃げたりなんてしないわ」
そういう意味では、人間としてあるべき恐怖という感情が完全に回復したわけではないのかもしれないとエレノアは思った。喉を食いちぎられて殺されるかもしれないというあの瞬間にさえ、エレノアの恐怖は死や痛みや、ラザレスその人には向いていなかったのだから。