黒き魔物にくちづけを
「な……」
ばさり、と翼が広がる。エレノアの喉から、思わず声が漏れ出た。獣でも爬虫類でも鳥でもない、そのアンバランスな姿に、彼女は自然と圧倒されていたのだ。
黒い魔物は、こちらにゆっくりと近付くと、エレノアの顔を覗き込むように頭を下ろす。黒い毛並みの中から覗く銀色の瞳に、ああ、これは彼なのだと本能的に悟った。
獣のような息遣いが顔にかかる。ずらりと並んだ尖った歯は触れたら切れてしまいそうで恐ろしい。けれど、エレノアは逃げなかった。
不思議と、その大きな魔物に、畏怖の念は芽生えなかったから。
「…………」
魔物は何も言わない。ただ静かな瞳で、こちらをまっすぐに見つめている。
その視線に誘われるように、エレノアは右手を持ち上げた。
魔物の顔は近い。大きさは、彼女の上半身ほどもある。それでも、臆することなく、手を伸ばす。
──指先が、彼の顎に、触れた。
「……!」
彼女の細い指先が、硬い毛の感触を捉えた瞬間、魔物が驚いたように目を見開く。
次の瞬間、魔物は勢いよく頭を上げた。
毛の感触が、そこにあった温もりが、遠のく。頭を持ち上げた獣の上背はエレノアの遥か頭上にあるので、その手が届くことは無い。
無意識に指先が、それを追って上へとさまよった刹那、魔物の影がぐらりと揺らいだ。
「……っ?」
エレノアは、目を見開く。それもそのはずだ。彼女の目の前で、山のように大きな魔物は──縮み始めたから。
その様子は本日何度か見た、烏が大きくなったり小さくなったりするさまと、少し似てはいた。けれどそれとは、大きく異なった。何故なら。
──何故なら魔物の姿は、大きさだけでなく、外見や質感まで、変化していたから。
カラスのように、ただ縮んでいくのではなかった。ゆっくりと縮みながら、身体の半分以上を覆う毛が、まるで吸い込まれるように消えていくのだ。
その代わりに現れるのは、エレノアにとって身近な色である、人の肌の色。
黒い点々──鱗を散らばせた肌が、ゆっくりと、人の形をつくっていく。
最後に翼が、折りたたまれるように縮んで、黒い布のようになってまとわりついていく。
──瞬きをいくつかするような、決して長くはない時間。そのうちに、山のように大きな魔物は、先ほど話していた黒いローブの青年となって、彼女の目の前に立っていた。