黒き魔物にくちづけを
「……お前は、逃げないんだな」
やがて、男は静かに口を開いた。
彼の視線は、依然伸ばされたままのエレノアの指先に向けられている。その瞳には、毛むくじゃらの魔物の姿の時に浮かべた驚きの残滓をたたえられていて。
「……だって、逃げる理由がないもの」
彼女はゆっくりと腕を下ろすと、静かに口を開いた。
「魔物を恐れているのなら、はじめから一人で森の中になんて来ないわよ。あなたに襲われたわけでもないのに、無闇に怖がったりなんてしないわ」
「……そうか」
エレノアの言葉を聞いて、魔物は小さく息をつく。そして、いきなり彼女の手首を掴んだ。
「──お前は間違いなく、俺に捧げられた生贄だ。ならば、共に来い」
「……え?」
触れた温もりと突然の言葉に、彼女は戸惑いの声をあげる。それからじわじわと言葉の理解をして、喜びではなく、疑問の形に眉をゆがめた。
「何よ今さら。散々いらないって言ってたじゃないの」
「……それは、気が変わったというか」
「はあ?」
釈然としない答えを寄越す魔物に、彼女はますます声を尖らせていく。それでも握られた手首は離されることなく、彼は逆に言い切るように続けた。
「お前が言ったんだろう、受け取らないのは俺の自由だと。ならば、捨てた生贄を拾うのも俺の自由なはずだが」
「はあ……?」
筋が通っているような通っていないような物言いは、すっかり他の魔物を探すつもりだった彼女にはいまいち釈然としない。文句の一つでも言ってやろうと口を開こうとした時、けれど、先ほどまで途絶えていたバサバサとした羽音が戻ってきた。
「かしらー、オタカラー!……アレ、イケニエいる、ナンデ?」
気が付いたらどこかへ姿を消していたカラスが戻ってきたのだ。脚に何やら金色の像──あれは供物の台の上にあったやつではないか──を抱えているから、どうやら崖の下に落ちた供物を漁っていたらしい。