黒き魔物にくちづけを
掠めるようなそれが、触れていたのは時間にしたらどれほどだったのだろうか。
「きゃーーーーーー!!!」
止まった時を動かしたのは、耳をつんざく甲高い叫び声。もちろんエレノアのものではない。二人の接触を間近で見ていたカラスが、興奮気味にあげたものだ。
それが聞こえた瞬間には、エレノアは自分から唇を離し、平然と男を見上げた。
彼のぽかんとした瞳と、視線が交わる。見つめ合うこと数秒、唐突に、男は勢いよく、身体ごと顔を背けた。
「な……!!なん、なにを……!?」
「証明の、つもりだったのだけど。足りなかったかしら?」
「そういうことじゃない……!!!」
ひどく狼狽えた様子の男に、彼女は悪びれることなく返す。普通逆よねこの光景、と他人事のようにエレノアは思った。
「ごめんなさい、嫌だったかしら」
「……謝られるのはそれはそれであれなんだが……」
あまりにも動揺されたので思わず謝ると、男は複雑な表情でそう言いながら、諦めたように息をつく。それから、エレノアをまっすぐ見つめて言った。
「……お前の覚悟とやらはよくわかった。ならばもう何も言わん。共に来ればいい」
「……!」
根負けして折れただけかもしれないし、呆れたのかもしれない。それでも、彼が放ったのは、ここに来て初めてかけられた、彼女を受け入れてくれるもので。
エレノアはぱっと目を輝かせると、大きく頷く。
「そうさせてもらうわ。ありがとう。これからよろしくお願いするわ、旦那様」
「……ああ」
敢えて呼んでみた旦那様、という言葉に、魔物は一瞬視線をさ迷わせつつ素っ気なく相槌を打つ。それから、まだ騒いでいたカラスの方を向き直って呼びかけた。
「ビルド、屋敷に帰るぞ」
「わかったー」
カラスは従順に頷くと、こちらへと近付いてくる。また大きくなって運ばれるのかと身構えるエレノアの目の前で、けれど予想とは別のことが起こった。