黒き魔物にくちづけを
「ほら!これで満足!?」
「……ええ。どうも」
彼女は腰を曲げ、足元の紙幣に手を伸ばす。貰うはずのぶんより少し多いくらいだけど、敢えて告げる必要はないだろう。
何枚かのそれらを集めると、彼女は頭を上げ──かけて、激昂した女がさらに何かを振りかぶっているのを視界の端に捉えた。
まずい、と咄嗟の判断で頭を上げるのをやめると、次の瞬間には女はその手にした何かを投げつけた。
グシャ、と、何かが崩れる音が頭上から響く。彼女に向けて放たれた"何か"は、別のものに当たって砕けたらしい。──音から判断するに、卵か。
冷静にそんなことを考えると、直後に女の耳障りな甲高い叫び声が響いた。
「ちょっと!なんてこと!絵が!」
エレノアはようやく体勢を元に戻し、後ろを振り仰いで状況を理解した。……なるほど、エレノアを狙って投げられた卵は大きく狙いを外れ、背後にあった絵──夫人がどこかで買ってきたそこそこ値が張る悪趣味なもの──に当たったらしい。紫色のよくわからない妖精が描かれていたそれの上に、無残にも黄身の花が咲いていた。
「お前の仕業よ!黒い目を使って──!!」
自身のコントロールが余りにも下手だったことを棚に上げて、女はヒステリックに叫ぶ。どう考えても、エレノアがやったことではない。
「何もかもお前の黒のせいなんでしょう!最近やけに野菜が高いのも、店の中にねずみが出るのも、昨日私が転んだのも、全部お前の!」
「はあ……」
彼女はもはや何も言い返す気がなくなって息をつく。この女が転んだことすら私のせい、か。──なんだか苛々してきた。
エレノアは背後をもう一度仰ぎ見る。絵はやはり、エレノアが当たるはずだったらしい卵のせいで無残なことになっている。
彼女は満面の笑顔を浮かべて、言い放った。
「奥様、良かったですわね。黄色は黒と違って光を表す色。縁起が良いじゃないですの。どうせならこのままになさったらどうです?……まあ、芸術的価値はもうないみたいですけれど」
扉に手をかけて、勢いよく開く。
「前の不気味な絵より、こちらの方が素敵だと私は思いますわ。それじゃあ、永遠にさようなら」
捨て台詞のようにそう言い放ち、エレノアは一ヶ月と二週間世話になった職場を後にした。