黒き魔物にくちづけを
やがて、走っていた少女は唐突に足を止める。場所はやはりぼんやりしていて見えないけれど、せせらぎの音が聞こえるから水辺かなにかだろうか。
「あれ……?」
少女は一人で首を傾げている。何かをきょろきょろと探しているようだけど、それを見ているだけの彼女には何が起こっているのかさっぱりわからなかった。
「わんちゃんの声、聞こえたのになあ……」
ぽつりと少女が呟く。どうやら少女は、犬の鳴き声を聞きつけて走ってきた、らしい。けれどそれらしき姿は見つけられなかったようで、しゅんとした表情を浮かべている。
その時、近いところからがさりと音がする。
「……!」
犬だろうか、そんな期待を込めた瞳で、少女が音がした方を振り向く。それを見ている彼女も、つい同じ方向に目を向けた。
けれど──姿を現したのは、一人の少年だった。
(……あら?)
彼女は違和感を覚える。だって、それもそのはずだ。主人公たる少女以外のものはもやがかかっているはずのこの夢で、少年の姿は、眩しいくらいにはっきりと見えたのだから。
少年は、歳は少女よりも少し幼いほどに見えた。黒曜石を溶かしこんだような髪色に、月の光を閉じ込めたような銀色な瞳が印象的な、まだあどけない顔立ちの子供だった。彼は、驚いたような面持ちで、目の前の少女を見つめていた。
(……なにかしら、どこかで見たような……?)
黙って見ていた彼女は少年の姿──というより、彼のもつ色に既視感を覚えた。
黒に、銀。どこかで、この色合いを目にした気がするのだけど──
けれど、彼女の思考がその答えに辿り着くことはなかった。何故なら、それよりも先に少年がにこりと笑って口を開いたから。
「わんこ、こっちだよ、姉さん」
(──姉さん?)
聞きなれない呼び名に、彼女は驚く。もう一度確認しようとして、けれど、それは叶わなかった。
ふと、思考が薄らいでいく。覚醒の気配をすぐそこに感じながら、視界はゆっくりと白く塗りつぶされていった。