黒き魔物にくちづけを
「……帰らなきゃ」
彼女は急いで傍まで駆け寄ると、彼の右腕を自分の肩にまわして、なるべく揺らさないように気をつけながら立ち上がろうとした。が、予想よりも重く思わず膝をついてしまう。
(重い……!)
崩れた膝に力を入れ直して、どうにか踏ん張る。完全に脱力した男の身体は、いかに彼女に力仕事の経験があろうとも簡単には持ち上がらなかった。それでも、エレノアはよろめきながら何とか立ち上がった。男は彼女より背丈が高いから引きずってしまうことになるだろうが、それでも帰らなければと彼女は一歩を踏み出した。
その時──ようやく彼女は、辺りの異変に気がついた。
そこには、無数の黒がいた。先ほど見た、カゲと呼ばれる魔物ではない。もっとはっきりとした質量をもって、もっと獰猛な──獣が。
「狼……?」
思わず彼女は、その獣の名前を呟いた。
そこにいたのは、狼だった。町の人々に最も恐れられている獣が、彼女と魔物を囲むように、そこにいた。
今この状況で襲いかかられたらひとたまりもない、と、半ば絶望にも似た気持ちを抱いた時──けれど、彼女の予想とは違うことが起こった。
狼たちは、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくると、魔物の身体を囲んで、心配そうに見上げ始めたのだ。彼の足の傷を、仲間同士でするように舐めているのもいる。
「……この人の、仲間?」
半信半疑で、彼女は呟く。狼たちから敵意は見受けられず、むしろ彼を心配して寄り添うような気配すらあった。
呆気にとられているうちに、気がつくと一匹の狼が魔物の右足の下に身をねじ込み、背に乗せて支えるようにして持ち上げた。すぐに別の一匹が左足も持ち上げて、何かを訴えるようにエレノアに吠える。
「……運んで、くれるの?」
彼らの言葉はわからない。けれど、まっすぐ向けられた金色の瞳と、彼女の傍に寄せられた身体がそう言ってくれているようで、彼女はこくりと頷いた。