黒き魔物にくちづけを

「……ありがとう。お願い、してもいいかしら」

狼たちにそう頼んで、必死に支えていた男の身体を狼たちの背の上へと横たえた。『任せろ』と返事をするように小さく吠えた数匹の狼は、歩調を合わせて男を落とさないようにしながら歩き出す。

(すごい……それにしても、こんなに沢山の狼が……)

遅れないように彼女も歩き出しながら、改めて辺りの狼たちを見て彼女は思う。魔物を運ぶ数匹の狼以外にも、彼を見守るように寄り添う狼は沢山いて、辺りは彼らで埋め尽くされていた。何十、もしかしたら何百匹もいるかもしれない狼の群れは圧巻だった。

(こんなに沢山の狼を見たことなんて、あの日以来じゃないかしら……)

あの日──故郷が焼け落ちた日。彼女がもつ一番古い記憶。狼に囲まれていると、どうしてもあの記憶が脳裏をよぎった。

(大量の狼と、その中心に立つ人間……)

忘れもしない、あの日の光景。心を過去へと飛ばしていた彼女は、ふと強烈な既視感に襲われる。──あの記憶とよく似た場面が、あるじゃないか。

(……まるで今この場面みたいじゃない)

既視感どころでは、なかった。だってそれは、今彼女の目の前に、広がっていたのだから。

彼女の胸の中に、言いようのない霏が立ち込める。どうして今まで気が付かなかったのだろう。彼は人の姿をした魔物で、それなのに、黒い獣に変身できて、銀色の瞳をもっていて──共通点は、いくらでも見つけられるのに。

「……っ」

それでも、彼女は歩みを止めなかった。今やるべきことは、怪我をおったこの人をどうにかすること、それだけだったから。

(鞄の中に、いくつか包帯はあったわよね……足りない分は箪笥の中の服を拝借しましょう)

暗雲の立ちこめる思考は、ひとまず追い出そう。すぐに彼女の頭の中は、彼をどうやって処置するかという現実的な思考でいっぱいになった。

狼の群れと、傷ついた魔物と、生贄の少女。奇妙な一行は、森の中に唯一建つ【家】に向かって、進んでいった。
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