黒き魔物にくちづけを
***
彼女は夢を見ていた。
(ああ、嫌だわ。またこの、変な夢)
夢だと気がついていたから、彼女はそう考えて溜息をつく。
せめて夢なら夢らしく、夢であると気付かずに良い思いをさせてくれれば良いものを、彼女の夢はそうさせてはくれないのだった。酔いしれることも、逃げることすら叶わず、虚像と判っているものを眺めなければいけないこの時間が、彼女はいっとう嫌いだった。
「……嫌!嫌よ!」
突然、辺りに甲高い声が響く。彼女自身の本心のようなそれは、けれど彼女のものではなかった。
目の前に、少女が現れる。いつもの夢の、黒い瞳をもつ、よく知った【誰か】に似た少女だ。けれどいつもと違うのは、いつものは夢の中で笑っていたはずの少女が、髪を振り乱して泣き叫んでいたことだ。
「もうやめて!嫌よ!……やめて!」
彼女はその黒耀の瞳から幾筋もの涙を流して、何かを拒絶するように、怯えたように叫んでいた。
(何が、あったの……?)
ただならぬ様子に、彼女は戸惑う。けれどいつものように周りにはもやがかかっていて、少女が何をそんなに拒絶しているのか、彼女にはわからなかった。
「エレノア、……エレノア」
と、突然自分の名前を呼ばれて、彼女は驚いた。今まで夢の中では傍観者でしかなかった彼女にとって、それは初めての経験だったから。
声をした方を見ると、そこにはどこか見覚えのある黒い少年がいた。なに、と思わず返事をしかけた彼女ははっと気がつく。彼の銀色の瞳は、彼女ではなく、泣き叫ぶ少女に向けられていた。
少年は、取り乱した少女とは裏腹に、場違いな程に冷静だった。まるで面のような表情を浮かべて、少女の方に手を伸ばしている。──彼女の腕を、掴むために。
少女は目を見開いて、彼の手を見つめた。
「嫌、嫌よ……!」
辺りに叫び声が響く。それと同時、バシリ、と大きな音をたてて、少女は勢いよく彼の手を払いのけていた。
「嫌、お願いやめて……!」
はっきりと彼の方を向いた少女は、懇願をするようにそう叫ぶ。その瞳は、明らかに彼を拒絶していた。
「お願い……!……ラザレス!」
叫んだ少女の瞳から、また一つ、大粒の涙がこぼれ落ちた。