黒き魔物にくちづけを
「かしら、だいじょうぶ?」
「ああ」
右脚を引きずりながら歩く魔物の様子に、ビルドが心配そうに声をかけた。彼は短く答えて、ゆっくりと足を進めた。
やがて玄関に辿り着く。外へ出ると、そこにはカラスの言葉通り、何匹もの狼が、闇に紛れるようにして彼を待っていた。
「もう大丈夫だ」
屋敷から少し離れたところで、魔物がエレノアに向かって囁く。彼女は意図を察して、彼から手を離して少し距離をとった。
彼女が十分に距離をあけたところで、彼は姿を魔物のものに変えた。そして、並ぶ狼たちを見回して、グウウウ、とまるで何かを話すように唸り声をあげた。
それに答えるように、何匹かの狼が魔物のものよりも高い唸り声を返す。すると、彼はまた低く唸った。
(……やっぱり、会話しているんだわ)
交わされるいくつもの唸り声を聞きながら、彼女はそう確信する。何かを話していることだけは、狼の言葉がわからない彼女でもわかった。内容は、さっぱりだったけど。
恐らく彼は狼と会話するために外へ出たのだろうと彼女は思った。人間の姿の時には狼と会話が出来ないのかもしれないから、屋敷の外へ出て姿を変える必要があったのだろうと。
そんな考えを巡らせているうちに、場にいた狼と魔物の全員が、ウオオオン、と遠吠えのように鳴き始める。どうやら別れの挨拶かなにかだったらしく、彼らはそれを済ませると、何かの合図があったのかのように一斉に立ち上がって、森の中へ散り散りに走り去っていった。
エレノアは狼たちはどこへ行くのだろうとその背中を目で追った。彼らはどこか一方向ではなく、それぞれ別々の場所に向かっていっているように見えた。さほど経たずに、あんなにいた狼たちは一匹残らず姿を消した。
と、ふと視線を感じてエレノアは視線を自らの隣へと戻す。エレノアをじっと見つめていたのは、魔物だった。
あの銀の瞳は闇夜によく映える、なんて感想を、彼女は抱いた。それほどに美しく、静かな目だった。
(やっぱり、あの時の目とは違うわ)
昼間、人間に、そしてエレノア自身にも襲いかかってきた魔物の瞳とは、まるっきり別物だと思った。これが、過ごした時間は短いけれど、彼女の知っている魔物のものだ。──それなら、昼間のあれは何だったんだろう?