黒き魔物にくちづけを

「だが……その、怖い思いも、させただろう」

「大丈夫よ」

エレノアは即答した。あまりに平然と答えたからだろうか、魔物の方が、狼狽えたように表情を崩した。

「大丈夫、……って、そんなはずないだろう。俺はあの時、完全に【魔物】になって、お前に襲いかかったんだぞ。怖くないわけ、」

「……そうね、普通の人なら怖いと思うのかもしれないけれど」

魔物の言葉を、彼女は遮る。面食らった様子の彼を見上げて、エレノアは微笑んで見せた。

「本当に怖くはなかったの。だから大丈夫、あなたが気にすることはないわ」

男は驚いたように彼女を見つめた。けれど、至近距離で微笑む彼女の瞳を見て彼は戸惑ったように「……そうか」と言ったきり、口を閉ざした。

「さ、話は終わりよ。さっさと部屋に帰って寝てちょうだい」

「……ああ」

男は大人しく頷く。エレノアは行きと同じように肩を支えて、ゆっくりと歩き始めた。

行きと違うところは、居間ではなく魔物の寝室に直接向かうところ、それと、二人の間の沈黙が、やけに重々しいこと、それくらいだ。

魔物は歩きながら、何か考え込んでいるように口を閉ざしていた。彼女も敢えて口を挟まずに、行きよりもう少し長い道をゆっくりと進んだ。

「着いたわ。座れる?」

「ああ」

ようやく無事に部屋につくと、短くやり取りを交わして魔物はベッドに腰掛けた。一仕事終えた気分で、彼女は小さく息をつく。

「……エレノア」

居間に置きっぱなしになっている水差しやら包帯やらを取りに行こうと部屋を出ていこうとすると、魔物が彼女を呼び止めた。

「……どうしたの?」

ずっと黙り込んでいた彼が話しかけてきたことに戸惑いながら、彼女は足を止めてベッドの傍に戻る。彼は少し迷うような表情を見せてから、ゆっくりと口を開いた。

「怖くなかった、とお前は言ったな」

「……ええ」

まさか先ほどの話だとは思ってなかった彼女は、少し驚いてから頷く。魔物はどこか痛々しげな表情で、彼女を見上げて続きを口にした。
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