黒き魔物にくちづけを
「……有り得ないだろう。自分より何倍も大きい、凶悪な外見の獣に殺すつもりで襲いかかられて、ほんの少しの恐れも抱かないはずが無いんだ。……だからはじめは、俺に謝らせないように、強がっているのかとも思った。でも、違う。お前は本心から、恐ろしくなかったと言っていた」
「…………」
淡々と語られる言葉に、彼女は口を閉ざす。
全て、彼の言う通りだった。言葉の通じない手負いの獣に本気で襲いかかられるというあの状況は、人が恐れを抱かないはずがないものであると、エレノア自身もよくわかっていた。
彼の問いに「怖くはなかった」と答えたのも、別に気を使ってのことではなかった。彼女は恐れを、抱いていなかったのだ。そしてそれは、相手が彼だからなんていう理由からではない。どんな魔物だったとしても、きっとそうだっただろう。
何故なら。
「俺の考えすぎだったら、それでいい。……エレノア、お前は、もしかして【恐怖】というものを、感じられなくなっているんじゃないのか?」
──彼女は、恐れることが、出来ないら。
魔物の銀色の瞳は、嫌になってしまうくらいに真剣だった。彼女はちょっとだけ黙り込んで、結局、首を縦に振った。
「……さすがね。見抜かれちゃうなんて、思ってなかったわ」
「……っ」
魔物の問いを肯定した彼女に、彼は、まるで否定をしてほしかったというように表情を歪めた。
「昔の記憶が無い、っていうのは前に言ってるわよね。その時に、記憶と一緒になくしちゃったみたいなの。今まで、いろんな人に殺されかけたり襲われたりしているけれど、【怖い】と思った記憶が、一度もないのよね」
不吉な黒い目と共にした十年間を思い出しながら、彼女は淡々と語る。屋敷に火を放たれたこと、後ろから襲われたこと──彼女という不吉を恐れた人々の行動で、死を覚悟したことはいくらでもある。けれど彼女は、これは痛いだろうから嫌だとか、殺されるのは腹立たしいだとか、そんなことを思うくらいで、恐怖したことは一度としてなかったのだ。