黒き魔物にくちづけを
「答えないならそれでもいいわ。根拠なら、他にもあるもの」
自信ありげな言葉に、魔物が思わず顔を上げる。彼女はゆっくりと唇を開いた。
「名乗っていないのは、あなただけだったかしら?」
なぞなぞのような問いかけに、一瞬魔物は怪訝な表情を浮かべる。けれど、すぐにはっとしたように目を見開いた。
出会ってから名乗っていないのは、魔物だけではない。──彼女自身も、彼に自分の名前を、一度も告げていない。
「私、一度も自分がエレノアだなんて言っていないわ。それなのに何故、私の名前を呼んだの?」
彼女は昼間のことを思い出す。人間が来ようという一瞬、彼は確かに彼女の名前を呼んで、茂みの中に押し込んだ。つい先程も、恐怖を感じないのかと尋ねる時に、彼はエレノアと名前を呼んでいる。きっと無意識に、つい零れてしまったのだろう名前。
魔物も、彼女の名前を呼んでいたという自覚はあったらしい。瞳をさまよわせて、動揺をありありと浮かべていた。
「それ、は……ビルドから聞いたんだ」
「嘘よ」
苦し紛れの言い訳を、彼女は一刀両断する。これには、れっきとした根拠があった。
「ビルドは私の名前を正しく発音できないの。えるなーとか、えーのあとしか言えないのよ。だからビルドから教わっていたとしても、あなたが正しい名前を呼べるはずがない」
「……」
一部の隙もない、彼女のつきつけた根拠。追い詰められて、とうとう魔物は項垂れるように溜息をついた。
エレノアは、ゆっくり息を吸い込む。もう否定も無視もされないだろうと、彼女は確信していた。