黒き魔物にくちづけを
「……私が、十年前に魔物を見たと言ったわよね」
静かな部屋に、彼女の声だけが響く。
ずっと知りたかったことが、すぐそこにあるのだと思うと、心臓が落ち着かなかった。なるべく冷静を保って、彼女は続けた。
「その魔物は、人の姿から獣の姿になったの。真っ黒で、瞳は銀色で」
エレノアはゆっくりと告げていく。彼には翼がある、ということさえ除けば、まるっきり目の前の男と重なる、自分の見た魔物の特徴を。
「……あなた、なのよね?ラザレス」
そして彼女は、最後の問いかけを、投げかけた。
一瞬、沈黙が降りる。エレノアは、やけに速い自分の鼓動を感じながら、じっと魔物を見た。
そうして、永遠のような何秒かのあと。
「…………そうだ」
魔物が、ようやく口を開いて、ゆっくりと顔をあげた。
彼の美しい銀の瞳が、エレノアの黒の瞳を映す。まっすぐに彼女を見つめて、彼は肯定の言葉を口にしていた。
「エレノア。……お前の考えている通りだ」
魔物の言葉は、ひどく重かった。同時に、どこまでも真摯だった。誤魔化しなどないのだと、エレノアのぶつけた言葉を全て受け止めた上で答えてくれているのだと、そうわかった。
「俺はお前のことも、お前に何が起こったのかも、知っている。……いや、こんな言い方は良くないな」
彼──ラザレスは、小さく息をついて、言い直した。
「お前を【壊した】のは、俺だ」
その、告げられた言葉に。彼女は思わず、目を見開いた。
【壊した】、と、彼は言った。正直その言葉は彼女の予想の範疇を超えていて、どう反応していいのかわからなかった。
──『私は、どこか壊れているのかもしれないわ』
先程自分が告げた言葉を、彼女は思い出す。あれは、エレノアに恐怖が欠落している話の中で言ったものだ。
壊れている──恐怖が欠落している。いつから?──記憶を失った、十年前のあの日から?
「お前を孤独にしたのは、俺だ。……今はそれしか言えない。すまない」
呆然としたままのエレノアに、彼は続けてそう言って、本当に申し訳なさそうに瞳を伏せた。
──夜風が、部屋の窓をガタリと鳴らす。
黒い夜空に、ちぎれた銀の月が、はぐれたようにぽっかりと浮かんでいた。