次期国王は初恋妻に溺れ死ぬなら本望である
「朝から忙しかったら、お疲れですか?」
アナに心配そうに顔をのぞきこまれてプリシラははっと我に返る。

(いやだ、なにを馬鹿なことを考えていたのかしら。私はフレッドの妻、この国の未来の王妃になるというのに。今日はその第一歩、しっかりしなきゃ)

「ううん、大丈夫よ。さぁ、そろそろ王宮に向かわないとね。お父様、お母様にご挨拶をしてくるわ」
今日から結婚式までの一月の間、プリシラは王宮内の離宮で過ごす決まりになっていた。結婚式後はそのまま王太子の宮に移る。よって、馴れ親しんだこのロベルト公爵邸とも今日でお別れだ。距離としてはそう遠くもないが、気軽に戻ってくることは叶わないだろう。
プリシラは両親に感謝の言葉を告げると、王宮からの迎えの馬車に乗って生家を後にした。


王宮<パトリシア宮>正殿、青獅子の間。
正方形の大きな広間に、溢れんばかりの人が集まっていた。この国の名だたる貴族達が一堂に会しているのだから、それはそれは華やかなものだった。色とりどりの流行りのドレスに身を包んだ女性達は紺碧のアドリル海を泳ぐ美しい魚の群れのようだ。一流の奏者が奏でる心地よい音楽と豪華な食事、楽しげな笑い声。
プリシラはその光景をどこか他人事のように眺めていた。今宵のヒロインにもかかわらずすっかり壁の花と化している。理由はただひとつ。エスコートしてくれるはずのフレッドがまだ現れないのだ。
今日ばかりは他の男性の手を取るわけにはいかないし、周囲の人間も気を遣ってプリシラには声をかけない。
誰もがなんでもないような顔をしてはいるが、なにかスキャンダラスなことがあったのでは‥‥という好奇心と疑惑の入り混じった視線をプリシラは痛いほどに感じていた。

「よう。フレッドはまだ着かないのか?」
そう声をかけてきたのはディルだった。
ライトブルーのベストにパンツ、濃紫のタイという夜会らしい華やかさのある格好をしている。珍しいことに、漆黒の髪はオールバックにきっちりと整えられていた。数々の浮き名のおかげか、この数年で彼はまた一段と色香を増した。アナの言う、『見つめられただけで蕩けてしまいそう』という言葉も決して大袈裟ではないかもしれない。
「しかし‥‥緊張のあまり体調を崩しただんて、あいつらしくないな。案外、花嫁をほったらかして浮気でもしてたりして‥‥?」
ディルはプリシラを挑発するように、にやりと笑う。
「フレッドはそんな人じゃないわ。結婚の儀に向けて忙しくしていたし、体調を崩すことだってあるわよ。あなたと一緒にしないで」
プリシラはディルを睨みつけると、冷たい声で返した。
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