能ある鷹は恋を知らない
「ビルの正面で待っている」

治療が終わると手早く身支度をしながら高島さんは言った。
言葉で何か言ったわけではないのに一瞬だけ私を見ると何も言わずに去って行った。
黙っていたことで肯定と取られたのか。

「ほんとにどこまでも自由な人…」

そう言いつつも決して恋愛感情ではないが気になるのも事実で、とりあえず食事だけなら、と気分を切り替えることにした。
結局今日も高島さんが最後の患者となり、片付けにもそう時間がかからず出られそうだった。

「舞子、ごめんだけどやっぱり予定入っちゃって…」
「見てたから知ってる。あれ『EAGLE・EXCEED』のCEOでしょ。やるねえ」

さすがセレブはCEOの顔まで周知のようだった。
上流階級同士のコミュニティや繋がりがあるのだろう。

「いやなんか成り行きっていうか…。そんなんじゃないんだけど」
「良いから行きなよ。あと双葉と一緒にやるから」
「…うん、ありがと」

最後の閉め作業を買って出てくれた同僚にお礼を告げて院長室へと足を運ぶ。
ノックすると「どうぞ」といつもの軽い声が聞こえたので中へ入った。

「院長、お疲れ様です。お先に失礼します」
「お疲れ。…そうだ、鮎沢ちゃん」

PCから顔を上げた院長はなぜかデスクを離れて私の前まで歩いてくる。

「どうし…」

尋ねようとする前に腰を引き寄せられると顎を掴まれて至近距離で目を合わせられた。
その力強さに普段の雰囲気が感じられず、焦燥感が募る。

「いんちょ…っ」
「男が女に服を買って着せる意味を知ってる?」

間近に覗き込む目が私を捕らえて離さない。
何も言えずに引き込まれるようにその瞳を見ているとその目が眇められて視線が鋭くなる。

「その服を脱がせて抱きたいってことだ」
「…っ」

院長の目がからかいのそれではなく、まるで別人のような表情に思えて息を飲む。
眼鏡の奥で光る瞳が妖艶な色を写しているようで背筋が震えた。
言葉を紡げなくて院長を見つめたままでいると、急にその表情がいつもの笑みに変わり、ぱっと身体が解放された。

「ま、一般的にはって話。高島くんが口説きに使うようなレストランは鮎沢ちゃんの私服では行けないようなとこだろうから気を付けて」

何それ。人をからかうにも程があるんじゃないの。

驚きの余韻が消えて怒りが湧いてくる。

「私を振り回して遊ぶのは止めてください…っ」

それだけ言い切って院長室を飛び出した。
勢いのままにクリニックを出てエントランスへ向かうエレベーターに乗り込んだ。

ほんといい加減にして欲しい。
どうしていつもあんな適当なんだろう。何考えてるか分からないし。あんな顔して人のことを振り回すなんて。

さっきの出来事を頭から追い出すように足早にエントランスを出て夜風に当たると少し気持ちが落ち着いた。
ビルの敷地内を真っ直ぐ道路に向かって歩いていくと路肩に黒のセダンが停まっているのが見えた。やっぱりというか、当然よく知っている高級外車メーカーで、近づくと運転席から高島さんが降りてきた。

「来たか」
「一方的に待ってるって言ったのは高島さんじゃないですか」
「まあいい。乗れ」

さぞ当然だと言わんばかりに助手席のドアが高島さんの手によって開かれる。

高島さんの服をよく見ると光沢感のあるグレイのスーツに濃紺のシャツ、ネクタイはペールグレイでおまけにネクタイピンはシンプルながら高そうなシルバー。

普通の日本人なら恥ずかしいしまず格好がつかないその動作も彼が行うとまるで映画のワンシーンだ。
その流れるように長い手足と顔の小ささがまたモデルか俳優にも引けを取らない美しいバランスを兼ね備えている。

「どうした」

その光景だけで思わずときめきそうだが冷静を取り戻し、「お邪魔します」と声をかけて乗り込んだ。
彼は別世界の住人だ。気まぐれに付き合っているだけで他意はない。
それは単なる事実なのに、なぜか自分に言い聞かせるような言い方になるのが不思議だった。


< 18 / 65 >

この作品をシェア

pagetop