能ある鷹は恋を知らない
「受付閉めました」
「ありがとうございます、鮎沢さん」
午後7時。長谷クリニックの受付終了時刻。
今日はもう患者さんも今治療している人で最後だし、15分には帰れるだろう。
と思った矢先。コンコンコンとガラス戸を叩く音がする。ガラス戸の内側に巻き取り式のカーテンを下しているのでシルエットしか伺えないが身長がかなり高そうだ。
カーテン降りてるなら終わってるって分かるのに。
仕方なくカーテンを上げてガラス戸を開けると、そこに立っていたのはネイビーのスーツに身を包んだ無愛想な男性だった。一瞬その整った顔立ちに目を奪われたがそんな場合ではない。
「すみません、今日はもう受付が終わったんです」
「きみはまだいるじゃないか」
低く凛とした通る声。耳元で囁かれたら腰にきそうな低音が発した言葉は予想外のものだった。
「…いや、ですから。受付が終わったんです。受付しないと治療できませんから」
「今受付をすればいい。私は高島だ」
全く人の話を聞かない人種か。
「高島さん、話を聞いてください。その受付は今日はもうできません」
「なぜだ。ようやく時間が取れたんだ。普段はとても来られない」
「お忙しいのは分かります。でも他の患者さんも皆さん時間を作って来られて…っ」
一瞬腕を掴まれたかと思うとガラス戸の中に入ってきた彼は私の身体を扉に押し付けた。
すぐに片手をガラス戸に突き、逃げられないように閉じ込められる。
驚きのあまり声も出ない私に彼はさらに顔を近づけるように背をかがめた。
「ちょ…っ」
「歯が痛くて眠れない。何とかしてくれ」
「…え?」
目の前の彼は形のいい唇を指で引っかけて口を開いていた。
一瞬でもキスをされるかと思った自分が恥ずかしくてしょうがないが、こんな時にまで口を開けられると覗いてしまう職業病に嫌気がさしながらも奥にはっきりとした虫歯を見つけてしまった。しかもかなり分かりやすく大きい。
「…虫歯ですね。これは痛いと思います」
「だから痛いと言ってる」
「………先生に相談します。とにかく離れて。そこでおとなしく待っててください」
「俺は子どもじゃない。虫歯ごときで騒がん」
そうじゃない。そもそもちゃんとした大人は受付の終わった医院に強引に入らないし、虫歯が痛いからって初対面の人間に壁ドンなんかしません。
それだけ虫歯に振り回されてるくせに「何が虫歯ごとき」よ。
直接言いたかったが何を言っても無駄な気がしてため息に逃がした。
一応、と預かった保険証を見ると『高島穂積』の名前の下に『イーグル・イクシード健康保険組合』の文字。
『EAGLE・EXCEED』って私でも知ってるアプリ開発の会社じゃない。
あんな上品なスーツ着て、涼しい顔にお似合いの香水なんか使っちゃってる有名IT企業のエリート。
根本的なところで常識を身に着けるべきじゃ……て、あれ。
妙な既視感に襲われる。
切れ長の目元が印象的な涼しい横顔、決して嫌味じゃない爽やかな香水の香り。
「あなたエレベーターの!」
「…なんだ」
突然振り向いた私に怪訝な顔を向ける。当然、覚えてなんかいないんでしょうけど。
「一つ言っておきますけど、人にぶつかったら顔見て謝るのが常識ですからっ」
それだけ言いきって院長室へ向かう。
やっぱりこんなところで働くのは早まったかもしれない。
これからもこんな人たちが来るなんて考えただけでも先が思いやられる。
「…エリートなんか大嫌い」
一人呟いて忌々しい保険証を手に院長室のドアをノックした。
「ありがとうございます、鮎沢さん」
午後7時。長谷クリニックの受付終了時刻。
今日はもう患者さんも今治療している人で最後だし、15分には帰れるだろう。
と思った矢先。コンコンコンとガラス戸を叩く音がする。ガラス戸の内側に巻き取り式のカーテンを下しているのでシルエットしか伺えないが身長がかなり高そうだ。
カーテン降りてるなら終わってるって分かるのに。
仕方なくカーテンを上げてガラス戸を開けると、そこに立っていたのはネイビーのスーツに身を包んだ無愛想な男性だった。一瞬その整った顔立ちに目を奪われたがそんな場合ではない。
「すみません、今日はもう受付が終わったんです」
「きみはまだいるじゃないか」
低く凛とした通る声。耳元で囁かれたら腰にきそうな低音が発した言葉は予想外のものだった。
「…いや、ですから。受付が終わったんです。受付しないと治療できませんから」
「今受付をすればいい。私は高島だ」
全く人の話を聞かない人種か。
「高島さん、話を聞いてください。その受付は今日はもうできません」
「なぜだ。ようやく時間が取れたんだ。普段はとても来られない」
「お忙しいのは分かります。でも他の患者さんも皆さん時間を作って来られて…っ」
一瞬腕を掴まれたかと思うとガラス戸の中に入ってきた彼は私の身体を扉に押し付けた。
すぐに片手をガラス戸に突き、逃げられないように閉じ込められる。
驚きのあまり声も出ない私に彼はさらに顔を近づけるように背をかがめた。
「ちょ…っ」
「歯が痛くて眠れない。何とかしてくれ」
「…え?」
目の前の彼は形のいい唇を指で引っかけて口を開いていた。
一瞬でもキスをされるかと思った自分が恥ずかしくてしょうがないが、こんな時にまで口を開けられると覗いてしまう職業病に嫌気がさしながらも奥にはっきりとした虫歯を見つけてしまった。しかもかなり分かりやすく大きい。
「…虫歯ですね。これは痛いと思います」
「だから痛いと言ってる」
「………先生に相談します。とにかく離れて。そこでおとなしく待っててください」
「俺は子どもじゃない。虫歯ごときで騒がん」
そうじゃない。そもそもちゃんとした大人は受付の終わった医院に強引に入らないし、虫歯が痛いからって初対面の人間に壁ドンなんかしません。
それだけ虫歯に振り回されてるくせに「何が虫歯ごとき」よ。
直接言いたかったが何を言っても無駄な気がしてため息に逃がした。
一応、と預かった保険証を見ると『高島穂積』の名前の下に『イーグル・イクシード健康保険組合』の文字。
『EAGLE・EXCEED』って私でも知ってるアプリ開発の会社じゃない。
あんな上品なスーツ着て、涼しい顔にお似合いの香水なんか使っちゃってる有名IT企業のエリート。
根本的なところで常識を身に着けるべきじゃ……て、あれ。
妙な既視感に襲われる。
切れ長の目元が印象的な涼しい横顔、決して嫌味じゃない爽やかな香水の香り。
「あなたエレベーターの!」
「…なんだ」
突然振り向いた私に怪訝な顔を向ける。当然、覚えてなんかいないんでしょうけど。
「一つ言っておきますけど、人にぶつかったら顔見て謝るのが常識ですからっ」
それだけ言いきって院長室へ向かう。
やっぱりこんなところで働くのは早まったかもしれない。
これからもこんな人たちが来るなんて考えただけでも先が思いやられる。
「…エリートなんか大嫌い」
一人呟いて忌々しい保険証を手に院長室のドアをノックした。