能ある鷹は恋を知らない
『普通のスーツで12時半に駅前で』

金曜日の診療終了後、それだけ告げて院長は部屋へ戻った。どこへ行くのか聞くタイミングもないまま、結局土曜日の午後、言われた通りにスーツを身に付けて駅前で待っていた。

ちょうど時計の針が12時半に差し掛かろうとしたとき、目の前に私でも知っている黒の高級外車が止まった。

「鮎沢ちゃんー」

窓からひらひらと手を振る長谷院長。そんなに大声で呼ばないでほしい。

「おはようございます。ていうか車ならもう少し人通りの少ないところで待ち合わせでも良かったじゃないですか」
「駅前が分かりやすいかなって」

分かりやすいし人多いしこの車で目立ちすぎるんですよ。
反論したかったがどうせ庶民の意見なんか聞きやしないと抗議を諦める。

「で、どこ行くんですか」
「歯科医学会と国際歯科研究学会の共催シンポジウム」
「ああ、学会ですか」

日本歯科医学会は年に何度かシンポジウムや研修会を主催している。研修会には歯科衛生士に成りたてのころ、何回か参加したことがあった。

「何すればいいんですか私」
「鮎沢ちゃんは俺の隣に居てくれるだけでいいよ」
「…それ、私行く意味あるんですか」
「もちろん。じゃないと頼まないから」

いまいち腑に落ちないが、行く先が分かったことで少し落ち着いた。学会なら半分仕事という言い方もあながち間違いじゃない。
その『半分』とやらが気にはなるけど。

午後1時から開催されたシンポジウムは滞りなく進み、研究発表を兼ねた講演は専門的過ぎて難しい話が多かったが歯科衛生士として純粋に勉強になったと感じるくらい有意義だった。

講演が終わり、閉会すると皆がそれぞれ知人やらと挨拶を始め、会場はにわかに話し声で溢れる。

「鮎沢ちゃん」

席を立った院長が私を呼び、一人の男性へと近づいた。

「先生、お久しぶりです」
「ああ、長谷君か。きみも来ていたのか」
「はい、先生の素晴らしい講演を聞かせていただきました」

よく見ると確か二番目に講演を行っていた地方大学の教授だった。
一通りの挨拶が終わると教授の視線が一歩下がっていた私にちらりと向き、それを察した院長がにこりと微笑んで言った。

「ああ、先生紹介が遅れました。こちら僕が結婚前提にお付き合いをしている鮎沢芹香さんです」

自然と背中に腕を回されて教授の前に進み出る。
耳に入った言葉の理解が遅れるが、回された手が促すようにポンと動くと一瞬遅れて口が開いた。

「…初めまして、鮎沢芹香と申します」
「可愛らしいお嬢さんだと思っていたんだ。そうか、きみもようやく腰を落ち着ける気になったかね」
「ええ、今は僕のクリニックで働いてくれて、公私ともに支えてもらっています」

単なる従業員としてお給料分の労働でしか支える気はありませんが。

教授は院長の肩を叩きながらわはは、と機嫌良さそうに笑っていた。
隣の院長も普段からは考えられないような好青年の顔で教授との会話を弾ませている。
その変貌ぶりはいっそ感心するほどだ。

一体どういうことなのか。すぐにでも院長に詰め寄りたかったがそういうわけにも行かず、こっちにも話題が振られる度ににこりと微笑むので精一杯だった。


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