両想いのおまじない
――満月の夜、九時ちょうどに。
学校でそう打ち合わせたあたしは、今日は早く寝ると言って早々と部屋に引っ込み、その時刻を待っていた。
俺も消しゴムで行く。そう言われたとおり、あたしは彼の消しゴムに触れていた。だから、あとは真柴くんが鏡の前であたしの名前を三回呼ぶだけだった。
「愛しい」あたしの名を。
「でも、そんなわけないよね……」
もし呼ばれても恥ずかしくないように、あたしはパジャマではなく、ちゃんとした私服に着替えていた。それも普通の私服じゃなくて、ちょっとお洒落目のものだ。
だって前回は……思い出すだけであたしはがっくりした。
あんなすり切れたようなパジャマに乾かしっぱなしの髪のひどい姿。とてもじゃないけど、好きな人には見られたくない格好だ。
まあ、だからあのとき真柴くんが「呪術」のほうに気を取られてくれたのは、不幸中の幸いだったかもしれない。まさか、彼がオカルト好きだなんて、思ったこともなかったけど。
時計を見る。九時までは、あと一分。
はあ、あたしは思わずため息をついた。
だめだってわかってる。でも、緊張してしまうのはなぜだろう。もしかしたら、なんて期待をどこかでしてるんだろうか。
でも期待はしちゃうよね。自分の服装を見下ろして、あたしはもう一つため息をついた。期待してなかったら、こんな服は着ない。でも、九時になっても何も起こらなかったら……。
秒針が時間を刻む。
「失恋まで、あと三十秒……か」
ぎゅっと両手を握りしめる。朋香の部屋からは、いつもと同じ、大音量のロックが聞こえてくる。
「あと十五秒」
カウントダウンでもしてなきゃやってらんない。あたしはベッドの上に立ち上がった。
「十、九、八、七、六、五、四、三、二……」
声が小さくなっていく。だめだ、真柴くんもあたしを好きだなんて、そんなことがあるはずない。
「一……ゼロ」
……ほら、やっぱりね。
あたしは無言でベッドに倒れ込んだ。
やっぱりあのおまじないは好きな人じゃないと効かないんだ。せっかくきれいに整えた髪をぐちゃぐちゃにして、あたしは布団に潜り込んだ。真っ暗闇の中で、目をつむる。
みじめで、情けなくて、悲しかった。こんな形で真柴くんの気持ちを知るくらいなら、おまじないなんかに頼らないでちゃんと告白すれば良かった。
「ちゃんと好きっていえば良かった……真柴くんに好きって言いたかった……」
つぶやくと、涙が溢れてきた。わんわん泣きながら、あたしは叫んだ。
「好きなのに、真柴くんのことが大好きなのにーーー!!」
「……それは……俺も……だけど……」
聞き覚えのある声に、あたしははっと目を開けた。
……ってまぶしい! なに? この見覚えのない部屋? ってか、布団は? あたしの布団はどこに行ったの?!
「……あの、吉沢? 約束って九時だったよな? 俺、何か間違えて……?」
「うわっ? あれっ? ま、ま、ま、真柴くん?!」
見知らぬ明るい部屋に佇むその人を見て、あたしは大声を上げた。
「ちょっ、吉沢、静かに!」
「あっ、だよね……」
ただいま絶賛混乱中の頭をなんとか回して、あたしは口に手を当てる。これも見知らぬドアの向こうに耳を澄ますが、どうやら誰も来ないようだ。
「そういえば、ラジオでもつけとこうか。吉沢のとこは何か隣がすげえ音楽鳴らしてたから気づかなかったけど」
「あ……音楽……ああ、あれはあたしの妹で……」
「妹がいるんだ? 俺は兄ちゃんが一人」
「そ、そうなんだ……」
言いながら、真柴くんを見上げる。
あの夜は違い、真柴くんもパジャマではなく、ちゃんとした服を着ている。昼間、あたしが触った消しゴムを、机の上に置いている。
ああ、あたしちゃんと呼ばれたんだ――混乱が徐々に収まっていく。
――でも、ってことは?
「お茶とか一応用意してみたんだけど……飲む?」
真柴くんが優しい笑顔であたしにコップを差し出してくる。それを放心状態で受け取りながら、あたしはぼんやりとつぶやいた。
「どうしてあたしはここに……?」
「何言ってんだよ、約束しただろ」
少し顔を赤くして、真柴くんが答える。
「召喚」が成功して嬉しいんだろうか。
「あの……よかったね」
ぼうっとしたまま、あたしはつぶやく。
「うん、よかったと思うよ。なんか突然すぎてよくわかんなかったけど、これで真柴くんは物理と科学を超えたムー大陸の時代に――」
「吉沢、大丈夫か?」
真柴くんが心配そうにあたしを覗き込む。あたしはこっくりとうなずいた。
「うん、大丈夫。それより、真柴くんの実験が成功して良かったよ。こういうオカルトが好きだなんて、すごく意外だったけど」
「あー、それなんだけど……別に俺はオカルトとか信じない主義で――」
「嘘だあ。だって言ってたじゃん、ムー大陸の時代がやってくるとか」
「やっぱ、召喚って人体に負担をかけるのかな? いや、そりゃそうか、俺だってあのとき……」
真柴くんがぶつぶつと独り言を言う。あたしはお茶を飲み干すと、コップを机の上に置いた。
「お茶、ありがとう。それじゃそろそろあたしは失礼するね」
「え、吉沢……」
「なんで真柴くんがあたしを呼べたのかわかんないけど、用があったらまた呼んで――」
「ちょっと待て、吉沢はまだ混乱してるんだよ。俺もそうだった。俺も超混乱したから」
「混乱? それで――」
これが両想いのおまじないだって気づかなかったってこと?
あたしの目からまた涙が溢れた。よくわかんないけど、それはぼろぼろと頬を流れた。
「ごめん! 吉沢!」
すると、真柴くんはあたしに手を合わせた。
「俺、本当はオカルトとか何の興味もないんだ。ただ、あのときは混乱して――」
「混乱して?」
「だって吉沢も俺もパジャマ姿だし、俺なんか歯ブラシとコップ持ってるし、落ちてる本は『両想いになる☆おまじない』だし、ああいう本を本気にするようなやつだと思わなかったし、ってか何が起こったのかわけわかんなかったし、だからとりあえず頭に浮かんだことを適当に――」
「ちょっと待って」
あたしは続けようとする真柴くんを遮った。
「あれが、その……恋のおまじないだってこと、最初から知ってたの?」
「知ってたのっていうか……」
真柴くんは赤くなってうつむいた。
「知ってるだろ……おまじないの内容も読んだし」
あたしも赤くなってうつむいた。
「……でも、あのときは何も言わなかったじゃん……」
「そりゃ言わないだろ……ってか誤魔化すしかないじゃん……あんな間抜けな格好で好きとか、そういう話もあれだと思ったし……」
「好き……って」
もう顔から火が出そうだ。真柴くんも同じだろうか。顔が上げられないと、確かめようがない。
「何だよ、さっきの聞いてなかったのかよ……」
すると、真柴くんは意を決したように顔を上げた。あたしもそろそろと目線を上げる。二人とも同じくらい顔が真っ赤だ。
「俺、吉沢のことが好きだ。……こんな方法で呼び出せたんだから、わかってると思うけど」
え、うそ。
あたしは言った。多分言った。けど、真柴くんの言葉があんまりに衝撃的すぎて、ちゃんと声に出せたかどうかは分からなかった。
「あ、あ、あたしも……」
好き。
今度はちゃんと言えたと思う。なぜなら、真柴くんは照れたように笑い、ありがとうと言ったからだ。
「……俺たちさ、これからもこうやって会えるから便利だな」
お互いに散々照れ、それがやっと落ち着いてきた頃に、ふと、真柴くんが言った。
「そ、そうだね……」
幸せすぎる空気に、いささかぼうっとしながらあたしは答えた。
「いつでも会えるね……」
「な。なんか、すごい得した気分かも」
「そだね」
真柴くんのベッドに腰かけて、肩と肩が触れ合うくらい傍にいる。あたしはその幸せを噛み締めた。
「そう考えると、遠距離恋愛も簡単かも」
「確かに! 世界中どこにいても会えるってことだよな」
「すごいね」
「本当だな」
あたしはまたしばらく酔ったようにぼうっとして、それから遅くならないうちに、真柴くんに家まで送ってもらった。
「会いたいときに会えるのは便利だけど、帰りが困るな」
真柴くんが笑う。
「じゃ、あの本で帰れる方法がないか、探してみるよ」
「そうだな、見てみて」
「わかった」
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
あたしは用意しておいた鍵で、こっそり自分の部屋に戻った。
真柴くんと両想いになれるなんて。
ベッドの中で、あたしは幸せなため息をついた。そして、明日もその幸せが続くと信じて、ゆっくりと眠りの中に落ちていく。
けれど、このときのあたしはまだ知らない。
次の夜、鏡の前であたしがいくら真柴くんの名前を唱えても、一向に彼が現れないことを。
そして、それは真柴くんがあたしを呼んでも同様だということを。
なぜなら、このおまじないは「両想いに『なる』おまじない」。
両想いに『なった』真柴くんとあたしに、どうやら効果はないようなのである。
学校でそう打ち合わせたあたしは、今日は早く寝ると言って早々と部屋に引っ込み、その時刻を待っていた。
俺も消しゴムで行く。そう言われたとおり、あたしは彼の消しゴムに触れていた。だから、あとは真柴くんが鏡の前であたしの名前を三回呼ぶだけだった。
「愛しい」あたしの名を。
「でも、そんなわけないよね……」
もし呼ばれても恥ずかしくないように、あたしはパジャマではなく、ちゃんとした私服に着替えていた。それも普通の私服じゃなくて、ちょっとお洒落目のものだ。
だって前回は……思い出すだけであたしはがっくりした。
あんなすり切れたようなパジャマに乾かしっぱなしの髪のひどい姿。とてもじゃないけど、好きな人には見られたくない格好だ。
まあ、だからあのとき真柴くんが「呪術」のほうに気を取られてくれたのは、不幸中の幸いだったかもしれない。まさか、彼がオカルト好きだなんて、思ったこともなかったけど。
時計を見る。九時までは、あと一分。
はあ、あたしは思わずため息をついた。
だめだってわかってる。でも、緊張してしまうのはなぜだろう。もしかしたら、なんて期待をどこかでしてるんだろうか。
でも期待はしちゃうよね。自分の服装を見下ろして、あたしはもう一つため息をついた。期待してなかったら、こんな服は着ない。でも、九時になっても何も起こらなかったら……。
秒針が時間を刻む。
「失恋まで、あと三十秒……か」
ぎゅっと両手を握りしめる。朋香の部屋からは、いつもと同じ、大音量のロックが聞こえてくる。
「あと十五秒」
カウントダウンでもしてなきゃやってらんない。あたしはベッドの上に立ち上がった。
「十、九、八、七、六、五、四、三、二……」
声が小さくなっていく。だめだ、真柴くんもあたしを好きだなんて、そんなことがあるはずない。
「一……ゼロ」
……ほら、やっぱりね。
あたしは無言でベッドに倒れ込んだ。
やっぱりあのおまじないは好きな人じゃないと効かないんだ。せっかくきれいに整えた髪をぐちゃぐちゃにして、あたしは布団に潜り込んだ。真っ暗闇の中で、目をつむる。
みじめで、情けなくて、悲しかった。こんな形で真柴くんの気持ちを知るくらいなら、おまじないなんかに頼らないでちゃんと告白すれば良かった。
「ちゃんと好きっていえば良かった……真柴くんに好きって言いたかった……」
つぶやくと、涙が溢れてきた。わんわん泣きながら、あたしは叫んだ。
「好きなのに、真柴くんのことが大好きなのにーーー!!」
「……それは……俺も……だけど……」
聞き覚えのある声に、あたしははっと目を開けた。
……ってまぶしい! なに? この見覚えのない部屋? ってか、布団は? あたしの布団はどこに行ったの?!
「……あの、吉沢? 約束って九時だったよな? 俺、何か間違えて……?」
「うわっ? あれっ? ま、ま、ま、真柴くん?!」
見知らぬ明るい部屋に佇むその人を見て、あたしは大声を上げた。
「ちょっ、吉沢、静かに!」
「あっ、だよね……」
ただいま絶賛混乱中の頭をなんとか回して、あたしは口に手を当てる。これも見知らぬドアの向こうに耳を澄ますが、どうやら誰も来ないようだ。
「そういえば、ラジオでもつけとこうか。吉沢のとこは何か隣がすげえ音楽鳴らしてたから気づかなかったけど」
「あ……音楽……ああ、あれはあたしの妹で……」
「妹がいるんだ? 俺は兄ちゃんが一人」
「そ、そうなんだ……」
言いながら、真柴くんを見上げる。
あの夜は違い、真柴くんもパジャマではなく、ちゃんとした服を着ている。昼間、あたしが触った消しゴムを、机の上に置いている。
ああ、あたしちゃんと呼ばれたんだ――混乱が徐々に収まっていく。
――でも、ってことは?
「お茶とか一応用意してみたんだけど……飲む?」
真柴くんが優しい笑顔であたしにコップを差し出してくる。それを放心状態で受け取りながら、あたしはぼんやりとつぶやいた。
「どうしてあたしはここに……?」
「何言ってんだよ、約束しただろ」
少し顔を赤くして、真柴くんが答える。
「召喚」が成功して嬉しいんだろうか。
「あの……よかったね」
ぼうっとしたまま、あたしはつぶやく。
「うん、よかったと思うよ。なんか突然すぎてよくわかんなかったけど、これで真柴くんは物理と科学を超えたムー大陸の時代に――」
「吉沢、大丈夫か?」
真柴くんが心配そうにあたしを覗き込む。あたしはこっくりとうなずいた。
「うん、大丈夫。それより、真柴くんの実験が成功して良かったよ。こういうオカルトが好きだなんて、すごく意外だったけど」
「あー、それなんだけど……別に俺はオカルトとか信じない主義で――」
「嘘だあ。だって言ってたじゃん、ムー大陸の時代がやってくるとか」
「やっぱ、召喚って人体に負担をかけるのかな? いや、そりゃそうか、俺だってあのとき……」
真柴くんがぶつぶつと独り言を言う。あたしはお茶を飲み干すと、コップを机の上に置いた。
「お茶、ありがとう。それじゃそろそろあたしは失礼するね」
「え、吉沢……」
「なんで真柴くんがあたしを呼べたのかわかんないけど、用があったらまた呼んで――」
「ちょっと待て、吉沢はまだ混乱してるんだよ。俺もそうだった。俺も超混乱したから」
「混乱? それで――」
これが両想いのおまじないだって気づかなかったってこと?
あたしの目からまた涙が溢れた。よくわかんないけど、それはぼろぼろと頬を流れた。
「ごめん! 吉沢!」
すると、真柴くんはあたしに手を合わせた。
「俺、本当はオカルトとか何の興味もないんだ。ただ、あのときは混乱して――」
「混乱して?」
「だって吉沢も俺もパジャマ姿だし、俺なんか歯ブラシとコップ持ってるし、落ちてる本は『両想いになる☆おまじない』だし、ああいう本を本気にするようなやつだと思わなかったし、ってか何が起こったのかわけわかんなかったし、だからとりあえず頭に浮かんだことを適当に――」
「ちょっと待って」
あたしは続けようとする真柴くんを遮った。
「あれが、その……恋のおまじないだってこと、最初から知ってたの?」
「知ってたのっていうか……」
真柴くんは赤くなってうつむいた。
「知ってるだろ……おまじないの内容も読んだし」
あたしも赤くなってうつむいた。
「……でも、あのときは何も言わなかったじゃん……」
「そりゃ言わないだろ……ってか誤魔化すしかないじゃん……あんな間抜けな格好で好きとか、そういう話もあれだと思ったし……」
「好き……って」
もう顔から火が出そうだ。真柴くんも同じだろうか。顔が上げられないと、確かめようがない。
「何だよ、さっきの聞いてなかったのかよ……」
すると、真柴くんは意を決したように顔を上げた。あたしもそろそろと目線を上げる。二人とも同じくらい顔が真っ赤だ。
「俺、吉沢のことが好きだ。……こんな方法で呼び出せたんだから、わかってると思うけど」
え、うそ。
あたしは言った。多分言った。けど、真柴くんの言葉があんまりに衝撃的すぎて、ちゃんと声に出せたかどうかは分からなかった。
「あ、あ、あたしも……」
好き。
今度はちゃんと言えたと思う。なぜなら、真柴くんは照れたように笑い、ありがとうと言ったからだ。
「……俺たちさ、これからもこうやって会えるから便利だな」
お互いに散々照れ、それがやっと落ち着いてきた頃に、ふと、真柴くんが言った。
「そ、そうだね……」
幸せすぎる空気に、いささかぼうっとしながらあたしは答えた。
「いつでも会えるね……」
「な。なんか、すごい得した気分かも」
「そだね」
真柴くんのベッドに腰かけて、肩と肩が触れ合うくらい傍にいる。あたしはその幸せを噛み締めた。
「そう考えると、遠距離恋愛も簡単かも」
「確かに! 世界中どこにいても会えるってことだよな」
「すごいね」
「本当だな」
あたしはまたしばらく酔ったようにぼうっとして、それから遅くならないうちに、真柴くんに家まで送ってもらった。
「会いたいときに会えるのは便利だけど、帰りが困るな」
真柴くんが笑う。
「じゃ、あの本で帰れる方法がないか、探してみるよ」
「そうだな、見てみて」
「わかった」
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
あたしは用意しておいた鍵で、こっそり自分の部屋に戻った。
真柴くんと両想いになれるなんて。
ベッドの中で、あたしは幸せなため息をついた。そして、明日もその幸せが続くと信じて、ゆっくりと眠りの中に落ちていく。
けれど、このときのあたしはまだ知らない。
次の夜、鏡の前であたしがいくら真柴くんの名前を唱えても、一向に彼が現れないことを。
そして、それは真柴くんがあたしを呼んでも同様だということを。
なぜなら、このおまじないは「両想いに『なる』おまじない」。
両想いに『なった』真柴くんとあたしに、どうやら効果はないようなのである。