Sの陥落、Mの発症
自分のデスクに戻って机の上の書類を手にするも内容が頭に入ってこない。

意識が自然とあの瞬間に遡る。

ーーー誰もいない非常階段での貪られるようなキス。

長い口づけのあと唇を離した佐野くんは身体の力が抜けた私の腰を支えて至近距離で顔を覗き込んだ。

口元に笑みを浮かべながら首を指でなぞられ、敏感になった身体がぴくりと跳ねた。
そんな私の反応を見て佐野くんは身体を離して扉を開く。

「そんなやらしい顔で出て来ないでくださいね」

そう言い残して佐野くんは出ていった。
身体から力が抜けていた私は乱れた呼吸が整うのをその場で待つしかなかった。

思い出すだけで身体が震えそうな熱いキス。

そんな風に私を翻弄しておいてあっさり興味をなくしたなんて。

それでも、佐野くんに何かを言えるような関係じゃない。
私と彼の間には名前をつけられる何かがない。

ただの、上司と部下だから。

そこまで思い至って現実に帰る。

だめだ、全然仕事に手が付かない。
これ以上ここにいても意味がない。

帰り支度をして席を立つ。
営業二課で残っているのは荷物を置いたままの狭山くん以外もう誰もいなかった。

営業フロアを出てエレベーターホールへ向かう。

狭山くんが戻ってないならまだ佐野くんとラウンジで話しているのかもしれない。
戻ってくる前に1階に降りないと。

心の中で若干焦りつつエレベーターを待つ。
到着のアナウンスと共に中に乗り込み、「閉」ボタンに手をかけた。

その時、革靴の音とともに閉じる前の扉に乗り込んできたのは今一番顔を見たくない佐野くんだった。

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