Sの陥落、Mの発症
「あ、中條課長も今帰りですか」

いつもと変わらない好青年の顔で佐野くんは笑顔で言った。

「佐野くんこそ…まだ残ってたの」

なんとか平静を装って答えると佐野くんは私の隣に並んで立つ。

「帰り喉が渇いたのでラウンジ寄って休憩してたんですよ。そしたら狭山くんと話し込んでしまって」
「…そう」

すぐに目線を反らす。
さっきの話を立ち聞きして、どんな顔をすればいいか分からなかった。

狭いエレベーターの中に二人。
しかも相手は自分に興味をなくした、一度関係を持った部下だなんて。

「そんな距離をとらなくてもいいじゃないですか」

無意識の内にとっていた距離を一歩で詰められて思わず身体が強張る。

「…っ」
「どうしてそんな警戒するんですか？」
「これ以上近づかないで…っ」

思わず腕を前に出して距離をとる。

もう心を乱されたくない。
振り回されたくない。

そう思うのに、佐野くんの顔はまるで面白いものを見つけたように口元に笑みを浮かべて。

「そういうの、逆効果だってまだ分からない？」

そう言って腕があっさり掴まれると壁に押し付けられ、抵抗する間もなく唇を佐野くんのそれで塞がれていた。

「んん…っ」

どうして。
もう私に興味ないはずなのに。

乱暴に暴かれる咥内を熱い舌に蹂躙される。
拒絶したいのに身体がそれを受け入れない。
こんなに一方的にされているのに。

こんな、心を裏切るような身体。
単なる気まぐれに弄ばれるだけの身体なのに。

「ふ…っ」

息苦しいのと情けなさで涙が溢れてくる。

こんなキスを望んだはずじゃなかった。

「は…」

涙に気付いたのかいつもより早く唇が離れる。
見られたくなくて顔ごと視線を反らした。

「…そんなに嫌ですか」

抑揚のない声が狭い箱に落ちる。
その時1階に到着するアナウンスが流れ、ドアが開いた瞬間、抑えられていた腕を振り切って走り出した。

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