Sの陥落、Mの発症
「中條、待たせた」
「ううん、私もさっき出てきたの」

1階のロビーで待っているとエレベーターから出てきた樫岡くんが早足で歩いてくる。

「食べたいものある?」
「うーん、飲むことしか考えてなかった」
「行ってみたいとこあるんだ。そこでいいか?」
「お任せします」

そう言って樫岡くんに連れてこられたのは30階程のビルだった。
20階から上が全部飲食店とのことで、エレベーターに乗って上がってきたのは29階の鉄板焼の店だ。
店内は少し暗めの照明に紅い絨毯が広がり、敷居が高めの雰囲気だった。
カウンターと反対側の窓にはきらびやかな夜景が広がっている。

「美味しい」
「ああ。来て正解だな」

目の前の鉄板で焼かれる厚みのあるステーキは中身の赤いレア。その香ばしい匂いがより食欲を誘う。
合わせるのは深みのある赤ワイン。
最高の組み合わせだった。

「ほんと美味しいお店知ってるわね」
「いや、ここは若手の奴に聞いたんだ」
「そうなの?」
「そいつがよく下の居酒屋にコンパで来るらしいんだけど、上の鉄板焼に行ったことないって言ってたから」
「ふふ、それでここに?嫌みな上司ね。連れてきてあげればいいのに」
「なんでこんな店に男の後輩と来なくちゃいけないんだ。どうせなら綺麗な女性と一緒がいいに決まってる」
「私なんかで良かったの?」
「願ってもないことだ」
「ほんとに口が上手いんだから」

軽口を言いながらワインを口にする。
美味しい食事に美味しいお酒。
嫌なことを忘れるにはうってつけだ。

「それで、何かあったんじゃないのか」
「…何かって?」
「この間から何か悩んでるだろ」

誤魔化せたと思ってたのは甘かったようだ。
不意に真面目なトーンになるこの同期は侮れない。

「もう何もないの」
「そんな顔には見えないな」
「…この年になって自分の愚かさを口にしたくない」
「年が関係あるのか?」
「あるわよ」

20代の頃はバカな失敗をしたって慰めてくれる人がいた。若いからこそ許された。
この年になって20代と同じ失敗をしたって、笑われるだけ。
私だって、自分の年がどういう年か分かってる。

「中條は自分に厳しいからな。もっと優しくしてやれよ」
「…だめ。そんなことできない」
「じゃあ俺が甘やかしてやろうか」

そう言って左手が握られる。
唐突な手の感触にびっくりして樫岡くんの方を振り向く。

「もう、からかわないで」
「からかってるつもりはない。これでも心配してるんだ」
「え?」
「付き合いは長いからな。中條のなんでも溜め込む癖。俺じゃ聞き役になれない?」
「そういうんじゃ…」

また視線を下に戻すと樫岡くんの手が離れた。

「アルコールが足りないか。上で飲み直そう」
「でも…」
「まだ時間はゆっくりあるだろ」

上手く誘導されるように鉄板焼の店を後にし、最上階のバーへと移動することになった。

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