Sの陥落、Mの発症
注文したキールロワイヤルが目の前に置かれる。
隣を見ると樫岡くんの前にはドライマティーニ。
雰囲気の良いBGMにさっきのお店よりもさらに暗い照明。

「なんか初めて二人で飲みに行ったこと思い出すな」
「こんな洒落たバーなんかじゃなかったけど」
「社会出たてのガキだったからな」

周りも騒がしい居酒屋チェーンの店だった。
あの時飲みに来たのは、初めて私がミスをした時。
営業部一課に配属され、やる気が空回りしていた。
その時も一言も相談なんかしなかったのに、樫岡くんに飲みに誘われたのだ。

「…なんか、樫岡くんには全部お見通しみたい」
「今さらか?」
「ふふ、そうね…。仕事で失敗したときと同じ。一人で空回ったの。それだけ」

言葉にすればたったそれだけのこと。
それだけのことに、こんなにも気持ちが乱されるなんて思わなかった。

「好きだったんだな」
「え?」
「そいつのこと」
「…分からない」

いつも心が乱されるばかりで。
それでも、逃げられなくて。

これが、恋なのかどうか分からない。

「そんな顔して何言ってんだ」
「そんな顔って…」
「完全に恋する女の顔だ」

樫岡くんは優しく笑って言った。

「認めろよ。それで忘れればいい」
「どうして…」
「俺が慰めるから」

いつもより近い距離。
樫岡くんの声がふざけてるようには思えなくて。
アルコールが回りだした頭には考えることができない。

「そうしたら、楽になれる…?」
「…ああ」

楽になりたい。
忘れられるなら。

いつの間にか触れられた手を払うこともできず、空になったグラスを横目に連れられるように外に出ていた。

「大丈夫か?」
「え…?」
「だいぶ酔ってるな」
「酔ってなんか…っ」

言ったそばから身体がぐらつく。
傾いた身体を支えるように樫岡くんの手が腰に回った。

「これのどこが酔ってないって?」
「大丈夫だから…離して」
「どうして。今からムード作るの大事だろ」

そうして顔が近付き、耳元で囁かれるとアルコールで火照った身体がぴくりと反応した。

「樫岡くん…っ」
「中條課長」

その時、後ろから呼ばれた声に反射的に振り向いた。

「え…」
「どこ行くんですか」

そこに立っていたのは、少し息を切らせた佐野くんだった。

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