Sの陥落、Mの発症
いつものように誰も居ない部屋に帰る。
まださっきの光景が頭をちらついている。
スーツのジャケットを脱ぎ、鞄を落としてソファに座り込んだ。

佐野くんの、笑顔。
私には見せてくれない。

いつも意地悪なところばっかりだ。
この間、気持ちが通じたのかって一瞬思ったけど。

「分からない…」

何か言葉を言われたわけでもない。
事実だけ見れば二回身体を重ねたというだけ。

「佐野くんのバカ…」

悪戯を繰り返されては弄ばれるように身体は熱くなる。
ほんとに欲しいのはそんなんじゃないのに。

私が欲しいって言ってくれたのは、どういう意味だったの?



考えても分からない問題を抱えたまま、今週は慌ただしく過ぎていった。
佐野くんと言葉を交わすことも何度かあったものの、どんな顔をすれば良いのか、ちゃんと上司の顔になっているか不安で上手く目を見られなかった。

そんな私に気付いているはずなのに何を言ってくるわけでもない。

いよいよ興味がなくなったのかもしれない。
そんな風に思えば目頭が熱くなるような気がして、慌てて頭を振り払った。

仕事もようやく落ち着いたし、たまには一人で飲みに行くのもいいかもしれない。
金曜日の特権だ。

そうと決めて早速後片付けに取り掛かった。
今日中の確認などを一通りチェックして、気付けば窓の外はいつも通りに夜に姿を変えていた。

「早く終わるかと思ったけど」

ため息を付いてパソコンの電源を落とし、まだほとんど残っているメンバーに声をかける。

「お疲れさま」

佐野くんはまだパソコンと向かい合っていた。
一瞬だけ視線を遣ってそのままフロアを出ていった。

エレベーターが6階に到着するのを待つ。
この近くで飲むか家の近くで飲むか頭の中で候補を探す。

ポーンという音と共にエレベーターが到着して扉が開く。
エレベーター内に踏み入れ、扉を閉めようとボタンに指をかけた。

「えっ」

閉まりかけたドアに手が掛かり、閉じかけたドアが開く。
そこに立っていたのは。

「佐野くん…」
「お疲れさまです、中條課長」

薄く笑った彼はそのままエレベーター内に入ってきた。

「課長は飲み会参加するんですか?」
「え…」
「今日、色んな部から合同の飲み会があるって。メール見ませんでした?」

そういえばそんなタイトルの社内メールが入っていたかもしれない。バタバタしていて開けていなかった。

「…行かない」
「そうですか」

そのまま佐野くんは黙ったままで、佐野くんが参加するのかどうか分からないままエレベーターはエントランスへ到着した。

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