その件は結婚してからでもいいでしょうか

「今日は帰ってこないかもしれない」
美穂子は泣きながらつぶやいた。

「『早く帰る』なんて、きっと嘘」
美穂子はソファの上によじ登り、体を丸めて静かに泣く。

このままだと干からびちゃう。

思い切り鼻をすすったとき、玄関の鍵を開ける音がした。
美穂子は顔を上げる。

帰ってきた?

美穂子はソファから飛び降りて、玄関へ続く扉を開ける。

先生は玄関で靴を脱いでいた。

「ただいま」
そう言ってから顔を上げ、美穂子の涙目を見つけると、先生は「どうした?」と大声をだした。
短い廊下を三歩ほど駆け寄り、美穂子の顔を覗き込む。

帰ってきた。先生はちゃんと帰ってきた。

ちゃんと「おかえりなさい」って言いたいのに、涙でうまく声がでない。

「何があった?」
美穂子の背中に手を添えて、先生はリビングへと入る。そこで、床に落ちたスケッチブックを見た。

「あ、これ」
先生が床からスケッチブックを拾う。それから立ち尽くしている美穂子を振り返った。

「見たんだ」
「……はい。すみません」

美穂子はメガネの隙間から指を入れて、涙を拭う。

「いいよ。俺がいいって言ったんだから」
先生は一つ、息を吐く。

「そっか、知ったんだ」
そう言った。
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