その件は結婚してからでもいいでしょうか

「今日はもう、先生は帰ってこないんじゃないかと思いました」
美穂子は俯いたまま言う。

先生は軽く笑った。
「帰るよ。『早く帰る』って言っただろ。それに今日八代さんと会ったのは、純粋に仕事だし」

先生は美穂子の肩を抱いて「座ろっか」とソファを指差した。

二人で並んで座る。先生は膝に両肘をついて、少し考えるように前かがみになった。それから隣の美穂子を首をひねって見上げた。

「もう、済んだことだよ。八代さんとは、ちゃんとビジネスの関係に戻ってる」
先生は髪をかきあげて、背もたれに体を預ける。

「五年も前の話だ。いわゆる不倫ってやつで」
先生はため息をついた。

「俺は若かったし、八代さんは結婚してた。担当編集さんだったから、会う機会も多くて自然にそんな感じに」
先生の唇に自虐的な笑みが浮かぶ。「幻滅しただろ?」

美穂子は首を振った。

「体を重ねたら、その分だけ執着してくる。俺はあの人が欲しくてたまらなかったけれど、八代さんは離婚するつもりはなかった。そりゃそうだ、俺は先の見えない新人漫画家だったから」

先生は天井を見上げた。

「八代さんは、自分から俺の担当を降りた。『これで終わりにしよう』そう言ったんだ。不倫なんてものに、ハッピーエンドがあるわけない。美穂ちゃんの件でこの間電話がかかってきたのが、本当に久しぶりで。思ったよりもずっと普通に接してくれたから、俺もすごくほっとした」

美穂子はぎゅっと両手を握りあわせる。

「もう、八代さんに未練はないんですか?」
「ないよ」
「本当に? だって、この間八代さんからの電話で……」

先生は我に返ったでしょ?

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