その件は結婚してからでもいいでしょうか
「もう三年いるけど、わたしも見たことないもの」
山井さんが鼻眼鏡を指で直した。
「何歳かな」
「隣に住んでるんだよね」
「担当編集さんも見たことないらしいよ」
「それは、徹底してるな」
顔バレをしたくない先生はたくさんいる。特に桜先生ほどの人気があると、ストーカーまがいのことをするファンも出てくるからだ。でもそれは世間に顔バレしないというだけで、アシスタントや編集にまで正体を明かさないというのは聞いたことがない。
「よほどシャイなんですね」
美穂子は言った。
「案外、わたしたちと同じカテゴリーに生きてるんじゃない?」
吉田さんが言う。「喪女っていうね」
「わたしは喪女じゃないわよ。漫画家志望ってだけ」
小島さんがふんと鼻で笑った。「彼氏いますし」
「いるんですか?」
美穂子は素っ頓狂な声を出した。
「同棲中」
「マジですか? リア充がいたなんて」
吉田さんはこの世の終わりというような顔をした。
「わたしは三次元が生理的にダメです」
美穂子は言った。「毛穴とかあるの、許せない」
小島さんが「重症ねえ」とため息をつく。
「自分にも毛穴あるのに」
「だからわたし鏡を見ません」
美穂子はちょっと胸をそらした。
「辛すぎて、鏡の中の自分から目をそらしちゃいますから」
そう言うと、吉田さんは「だよね」とウンウン頷いた。
「こりゃダメだ」
小島さんが肩をすくめるのを合図に、山井さんが「じゃあ、そろそろ帰りますか」と立ち上がった。
みんな各々片付けをして立ち上がる。
美穂子も手早くコーヒーのカップを洗うと、デスクのライトを消した。
「じゃあ、おつかれさま!」
「また明後日〜」
マンション前でみんなと挨拶して、美穂子は歩き出す。
空気に春の香りが混じり出す。
まだ風は冷たいけれど、それほど待たずして春一番が吹くだろう。
美穂子は仕事を終えた充実感から、その空気を胸いっぱいに吸い込んだ。