君とゆっくり恋をする。Ⅰ【第1話 〜第5話】(短編の連作です)
バタバタしている中でも日々の業務はこなさねばならず、細々した仕事を片付けていると、帰るのがいつもより遅くなってしまった。
エレベーターを降り、時間外専用のエントランスに足を向ける。ガラスのドアの向こう、そこに佇む一人の男性。結乃はその背中に、無条件に反応してしまう。
……敏生だった。
傘を持っていないのだろう。降りしきる雨を見上げて、雨の中に踏み出すか否か迷っているようだ。
結乃は、その手にある自分の傘を握りしめた。脳裏に高校生の時の、あの紫陽花の坂道での出来事がよぎる。でも、今はあの時とは違う。少なくとも敏生とは言葉が交わせる関係にはなれた。今こそ、あの日できなかったことを、やるべきときなのかもしれない。
意を決する前に、とてつもない緊張が結乃の中を駆け巡る。
――なんて言って、話しかける?遠慮されたら、どうすればいい……?
考え始めるとそのためらいを表したように、結乃の足取りも鈍ってくる。そうしている内に、敏生の方が意を決して雨の中へと走り始める。