君とゆっくり恋をする。Ⅰ【第1話 〜第5話】(短編の連作です)
「いえ、かつてしていた取引をこちらの条件を多少譲歩して、復活させていただいただけのことです」
「いやいや、それでも立派、立派!岸川は大手だから、後のことを考えるとどんな形でも関わりを持っておくことは必要だからね。普通なら諦めているところなのに、芹沢くんはすごいなぁ、って言ってたんだよ。それで?総務部に何か用でも?誰か、呼ぼうか?」
「え……」
敏生は、思わず固まった。
目上の部長を使うのは気が引ける。でも、この際結乃を呼んでもらえれば、スムーズに事が運ぶ。
「……それでは、総務2課の片桐結乃さんを呼んでいただけますでしょうか?」
「2課の片桐さんだね?」
その気さくな言葉と同じく、部長はニッコリと笑ってフロアの奥へと入っていく。しかし、遠ざかっていくその背中を映しているはずの敏生の視界に、突然あの雨の夜の出来事が写り込んでくる。
一瞬触れ合ったお互いの唇。たとえようのない、その柔らかな感触。
まだ鮮やかに残っているあの時の感覚が敏生の中に駆け巡って、激しい動悸に襲われ始める。敏生は焦り動転して、思わず口を開いた。
「小田巻部長!あの、もう昼休みも終わりそうですし、またにします」
「え?」
小田巻部長は振り返って戸惑っているような顔をしていたが、敏生は一礼するや否や背中を向けて速足で歩きだした。