よいシエスタを(短編集)
それは光だった
【それは光だった】
ボタンがあれば押したくなるし、珍妙な食べ物を出されれば嗅ぎたくなるし、怖いと評判のホラー映画は観たくなる。
それが人間の性というもの。
だからわたしは、彼の忠告も聞かず、良いから大丈夫だからと彼の腕を引き、本来なら絶対に観ることがない、苦手なホラー映画を観に行った。
その映画の評判がとても良く、毎日何度も「大ヒット中」「興行収入〇億円突破」というCMが流れ、実際に観た人たちから「すごく良かった!」「超感動した」「ラストは大号泣」なんて話を聞いたら、観たくなってしまうじゃないか。
ただしそれは大間違いだった。
日本のホラー映画独特の、どんよりして陰鬱な雰囲気は気分を消沈させ、頭のてっぺんから足の指先まで冷えていくのが分かった。
百人以上の人がいるはずのシアター内はしぃんと静まり返り、まるでこの広くて暗い空間に自分ひとりしかいないような、深い闇の中に自分だけが取り残されているような。そんな感覚に陥った。
ほんの少しでも動けば、異形のものに見つかってしまう。無意識にそう思い、わたしはただひたすら息を潜め、硬直していた。
冷えた身体をようやく動かすことができたのは、あちこちからすすり泣く声が聞こえてきてからだった。
ああ、良かった。ここはわたし一人が取り残された深い暗闇の中じゃなかった、と。ほっとしたのも束の間、今度は震えと吐き気が止まらなくなった。
胃の中に溜まった絶望が、食道を逆流して吐き出されてしまいそうだった。
体調は、映画館を出て陽の光を浴びるとすぐに治った。
明るく活気がある世界で、三百六十度どこを見ても人がいることを思い出したのだった。