スプーン♪
メグのごはんがあるから。
教頭先生に紹介されている新しい先生の向こう、今も立たされて胸を張る野球部3年男子と目があった。その先輩男子は、腰のあたりで、小さく親指を突き出して見せる。野球部の準優勝を笑顔で確認。そんな合図にも似ていた。
合宿のご飯を思い出す。あんな事がなければ、私とは1度も話さないまま、卒業していたかもしれない先輩だ。先輩の幸せな思い出の中で、料理の味、香り、温度、そこに卵……共に思い出される事を思うと、それだけで嬉しい。
私は最高の笑顔で、小さく手を振り返した。

その頃、アブれた2年と3年からは失望とため息が漏れていた。〝岩崎〟と言う名前の新しい先生は、1年では2組と3組、同じく1年の選択授業で数学を担当すると知らされる。奥井先生の抜けた所ばかりだった。
「ええ~いいなぁ~」と同じくアブれた1年の女子あたりから一斉に声が上がると、目の前、4組数学担当の倉田先生が冗談っぽくムッと睨んで見せた。
朝礼が終わって解散。その途端、みんなドッと校舎棟に向かって雪崩れ込む。不意に、ランチ仲間で5組の日向ミサト、通称サトちゃんが列の後ろから、「うっす」と、私を突いてきた。そしてミルクの飴をくれた。
身長165センチ。チャームポイントは胸まで届くストレート・ロング・ヘアー。真面目そうな……というより、何処かユニークな黒ブチのメガネが印象に残る。そのメガネは、サトちゃんの頭の良さとコケティッシュな魅力を倍増させていた。何を頼んでも、そこそこ出来てしまう。存在を声高にアピールはしないけれど、みんな分かっている。こいつは使える……サトちゃんは、まるで〝タマネギ〟だった。料理に無くてはならない。入ってないと思っていたら、いやいや、ドレッシングにはすりおろして入れちゃってるよ~。料理もリアルも、私は大変お世話になってます。
サトちゃんは私の目の前にやってきて、お祈りのように両手を組んだ。
「優しくてカッコいい先生。メグ、数学頑張りますぅ♪」
って、飴がクチから飛び出そうになってるよ。
「ね、それってまさか、私を真似てるの?」
サトちゃんは、ワザとらしく涙目を演出、これ見よがしに手で拭って、「そうだぽ」とオドけて見せた。「そんな簡単に行けば悩まない、ぽ」とお返し。
そう……私は数学が大嫌いだ。拒絶反応は小学生の頃から既に起きている。
マイナス3を掛けるって何?現実世界、そんな見えない物をどうにかする必要ってあるのかな?何が分からないのか分からない。いつもテストの度に頭を抱えていた。だけど……だけど、奥井先生は大好きだったから。
奥井先生のおかげで、数学が少し嫌じゃなくなった。出題される問題がとても易しかったのだ。だから、こんな私でもテストは60点台をキープ。ちょっとでも問題が解けたという自信と、何とか追試を免れたという安心感で、いつもホッと胸を撫で下ろしていた。
奥井先生の魅力はテストや授業だけを言わない。職員室では数学以外の話を沢山してくれて。「ウチはね、丹沢まで飲料水をわざわざ汲みに行ってるのよ」と、そんな突き抜けたグルメ気質を嬉々として語ってくれた事を思い出す。
校舎棟に吸い込まれていく先生の列を見ながら、私は溜め息をついた。
「あー……、もう奥井先生は居ないんだ」
その時、偶然、隣になった2組女子が、「やたッ!岩崎クン、さっそく今日の2時間目だ」と、声を上げた。新しい先生を、さっそく〝クン〟呼ばわり。賑やかなグループからは、タメ口で舐められてしまうのかな。
「そうかぁ、早速、授業かぁ」
我が3組では、その岩崎先生の授業は明日だ。
どういう先生だろう。2組に居る友達に後で色々聞こう。
その時突然、後ろでワッ!と賑やかな声が上がった。
見れば、その岩崎先生の周り、早くも生徒が何人か群がってワイワイやっている。その中には2年も3年も居た。何だか不思議に思った。何故かお互いが既に知っている様子で、気軽に声を掛け合っているのだ。
「みんな、あの先生とは、もう塾で会ってるんだって」と隣にやって来たマユが教えてくれた。聞けば、岩崎先生はもともと地元の塾の先生で、今も週何日かはそこで教えているらしい。「へぇ~」
「てゆうかさ、さっきの紹介で教頭が言ってたじゃん」
「そうなの?」
全然、聞いてなかった。
あは♪と笑ってごまかすと、サトちゃんとマユは揃って、呆れたアメリカ人の真似をした。だって朝礼の間、ずっと野球部の先輩ばかりを見てたから……始まったばかりの片思い♪……なんちて。なんちて。
そう言えば、ここ最近、まともに好きになった男子が居ない。私は2人には分からないように、そっと溜め息をついた。
彼氏どころか、片思いイナイ歴、早や10年。
その間、ジャニーズにハマったり、韓流にトキメいたりはしたけれど、現実で好きになった男子と言えば、小1までに遡る。つまりそれ以降、これといって気になる男子が身近に居ないのだ。年下は論外だし、同級生も先輩ですら兄貴の延長に見えてしまって、いまいち乗り切らない。
気の多いマユは、バスケ部の先輩とかサッカー部のキャプテンとか、やたら掘り起こした。その情熱は凄いと思うけど、次から次へと落ち着かない心変わりは真剣度合いを疑ってしまう。一方、サトちゃんは、「ホトケ千鳥の早川クンが可愛い」と聞いた事もないようなお笑い芸人の名前を上げた。男子を可愛いと思うサトちゃんの気がしれない。男子の〝可愛い〟はイコール〝幼稚〟という事にならないかな。どちらも2人の後に続こうという気にはなれなかった。
校舎に入る前、校庭を1度振り返った。野球部の胴上げが始まっている。その隣りで、何の関係も無い男子の先輩も胴上げされていた。さっきの野球部の先輩は、倉田先生を挟んでか話し込んでいて。
卒業まで、あと半年ほど。年が明けたら、3年は学校にもなかなか出て来れない日が続く。受験の辛さと相まって、厳しい寒さが堪える。
冬は……苦手だな。
寒い日に、暖かいお部屋で半袖姿。高価なアイスクリームを大人買いして、溶けかけた所をすくって食べる。毎年のように、こんな罰あたりで究極のゼイタクを思い描いてしまうのは、自称〝寒冷ストレス〟だ。
今はまだ秋の入り口。暑さは夏のそれよりも穏やかだった。しかし寒さは思った以上に差し込んできて、ちょっと陰に入っただけでも冷える。制服ブレザーを着たり脱いだり、忙しい季節である。

その日の昼休みのランチ・タイム。天気の良い今日、教室を飛び出して、いつも集まるグラウンドの外周、木陰の下に落ち着いた。マユと夏休みの色々を報告しているそこに、「地味に腹減ったー」と5組のサトちゃんが遅れてやって来る。3人が揃った所で、さっそくお待ちかねの(?)新しい数学の先生の話になった。
〝岩崎弓嵩〟とは、〝イワサキユミタカ〟と読むらしい。
「難しい漢字だね」
私は数字も苦手だけれど、漢字もそう得意ではない。
「2組のアンナに聞いたんだけどさ、とりあえずデキそうな先生なんだって」
と早速、マユは情報を仕入れてきたようだ。アンナとは、2組の優等生で数学が超得意。そのアンナがデキる先生だと言うのなら間違いなさそう。イワサキユミタカは背が高くてカッコよくてデキのいい先生。これに〝優しさ〟が加わったら、言うこと無い。
盛り上がる2人の前に、私は今日のお弁当を勢いよく広げた。
「ほい。今日は、ちらし寿司。野菜の天婦羅を少し添えてまーす。そして本日の卵料理はシンプルに出汁巻きだぁ」
2人の会話が一瞬止まって、その目がお寿司に天婦羅に、釘付けになる。
ささやかな幸福に酔いしれる瞬間だった。
「あんたは天才だね。卵がジューシィ」
「このカボチャ、めっちゃ美味しい。きゃん」
そんな2人の褒め言葉に気をよくしながら、お茶と保温ポットのお吸い物をそれぞれの紙コップに注いだ。
高校に入学して2人と友達になってからずっと、お昼のお弁当は、2人から給食費(?)を貰って毎日私が作っている。3人分のお弁当。毎日運ぶのは正直、かなりキツいんだけど。特にあの坂は。
「メグの弁当があるから、面倒くさいけど今日も行くか!って思えるよね」
「そんな嬉しい事を言ってくれるから、お弁当は重いけど運んでやるかぁ」
「で、メグは、いつ健太郎に本命弁当作るワケ?」なんて、サトちゃんは余計な事も言ってくれるから、「それは宇宙規模でありえねーから」と、フッ飛ばす。健太郎とは何でもない。もう何度も言っているのに。
「だって今朝だって朝礼ん時、健太郎をずっと見てたじゃん」
「それは違うんだけど」
そこじゃないと否定したら、誰なのかと追求されて、三角関係だと冷やかされて、ますますこじれそうだし。うーーーん。
「だけど健太郎はさ……メグが思う以上に、何かを意識してるよ。まんざら勘違いでもないと思うけどね」
「だよね。入学当初から馴れ馴れしいじゃん。メグにだけ」
「私、毎朝ド突かれてんですけど」
「だから、ヤツはワザと狙ってんだよ。毎朝ド突かれる事も偶然じゃないって事だよ。ぽぽぽ~」
きゃっきゃ言うマユは、それはそれで耳触りだけど、まだ冗談の範疇で聞き流せた。でも、ぽぽぽと連発するサトちゃんは、フザけた言い回しでありながらも、どこか説得力がある。何だか素通りできない。
「2人とも、好き勝手言ってくれるね。マジで止めて、ご飯が不味くなるから」
ここで野球部の先輩男子を引きあいに出そうかも考えたけど、そこまで好きとかいうわけでもないし。
もし、もし、キャプテンが彼氏だったとして……何か美味しいものをプレゼントできないかな。あまーい時間を演出するデザートは絶対つけないと。
何が好きですか?例えば、部室で2人きりとか、野球観戦でピクニックとか。
放課後になる頃には、すっかり大人になった2人がドライブ・デートしている。
そんな楽しい妄想タイムにまで発展してしまった。そんな妄想で帰り道を行き、築25年の我が家に戻る頃には現実にも……戻るのだ。

見ると玄関前に、誰だか私服の女の子が一人立っている。首をかしげてジッとその子の様子を窺っていると、「メグぅ、さっきメール送ったんだけど見た?てゆうか見てないね」と笑いながら駆け寄って来た。
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