スプーン♪
「君とは、何処かで会ったっけ?」
「昨日の紹介にあったように、まずは半年間よろしく」
3組で岩崎先生の自己紹介は、たったこれだけだった。
みんな驚いている。「センセ、年いくつ?」と立ち上がった男子の質問は見事にスルーされた。先生の反応を楽しんじゃおうとばかりに、〝先生の彼女知ってるよ!〟と、そんな嘘っぱち爆弾を用意して待ち構えていたマユも肩透かしを食らって固まっている。
岩崎先生のスマートなスーツ姿に見とれている場合じゃなかった。何の前触れもなくテスト問題が配られたのだ。「うわ。いきなり?」
栄進塾とやり方は一緒なのかもしれない。かなり凹む。
「1学期の期末までの範囲から」
そう聞いて、「そんなの忘れてるよぉー」と嘆く1部に向かって、「覚えてる所だけでいいよ。今日は実力を見たいだけだから」と、岩崎先生は笑った。
涼しそうな笑顔から察するに、それほど難しくない基礎問題かな?そんな気休めで心落ち着かせる。
先生はテスト用紙をパッと配り終わると、「名前だけは忘れないようにね」とクギを刺した。「酷い実力が誰だか、分からないと困るから」
それを聞いて、あちこちで笑いが起こる。こっちは笑えない。私がその酷い実力の持ち主だと、いつか白日のもとに晒される。そんな悪い予感がしたのだ。
6ax2−3axy
……これは何の暗号だろう。
最初、これどうすんだっけ?
これと似たような式が3つ並んでいる。後は図形とグラフばっかり。見た事も無い。これを30分でやれと言う。まったく歯が立たないまま30分はあっという間に過ぎた。同じクラスで偶然(?)隣に座っている健太郎に、こっそり聞けば、
「こんな問題、オレは食った事もねぇよ」
そう言いながら早くも机の下、雑誌を開いてグラビアにデレデレしていた。
聞く相手を間違えたかもしれない。しかし、この態度のどこが脈アリなのか。サトちゃんに問い詰めたくなるよ。
反対隣の優等生、光野さんに聞けば、「こんな応用、教科書には無かったと思うよ」と教えてくれた。
全部が全部、どっかの問題集からの引用という事だろうか。そうだとしたら、見覚えなんか、あるわけがないのだ。テストが終わると岩崎先生は、「教科書を進もう」とばかり、どんどん先に進んだ。岩崎先生の様子に挫折は見えない。教え方はスパルタ風とも言えなかった。ただ、そのスピードは脅威である。
シャーペンが追い付かない。
教科書の練習問題に及んだ。
岩崎先生が、「今日、予習してきた人」と、声を掛ければ、男子が2人、女子が1人、勢いよく手を挙げる。
「じゃ、そこの2人。前に出て。5分で解いて」と指示があり、指された男子と女子が1人ずつ出て行った。
2人共、クラスでも優秀な頭のいい子で……だけど問題を解くのに自ら手を挙げて、積極的に主張するキャラではない。それを不思議に思いながらも、2人がサラサラと問題に向うのをうっとりと眺める。その当てられたうちの女子、波多野ツグミが「センセ♪」と明るい声を出した所で、この授業が始まって初めて、岩崎先生の無邪気な笑顔が見て取れた。
「真っ黒じゃん。彼氏と海に行ったの?」
クラス中から、ワッと冷やかしの声が起こった。「やだ、そんなの居ませんよぉ」と波多野さんは恥ずかしそうに受け流す。波多野さんは可愛いくて頭もそこそこ良くて、小さい頃からバレエを習っているせいか超スタイルいい。メグミと呼ばれる自分以上に何もかもが恵まれている。バンドをやってるような熱い男子にいつも囲まれていて、その中に彼氏の1人くらい居てもおかしくないと思うけど、確かにそんな噂は聞かないなぁ。
波多野さんはまるで〝給食のババロア〟だ。甘くてふわふわで、その存在に、みんな惑わされる。だがしかし、こっちの都合よく出てくれるかどうかは、気まぐれだ。
「先生、オレを忘れないでくれよ」と隣でチョークを置いた男子も声を上げた。先生の口から、2人共、今も塾で教えている生徒だと聞く。紹介されている間、2人共、どこか誇らしげだった。2人が問題を解き終わると、「さすがだな」と岩崎先生が満足そうに2人を誉め讃える。
「女にモテたいなら予習しろって先生言ったじゃん。オレ、学校でもちゃんとやってっからな」
健太郎がプッ!と吹き出せば、つられて周りも一斉に笑った。その男子が予習している事も知らなかったし、モテているという事実もまるで気が付かなかったので……こっちも遠慮なく笑います。
「アイツは、まだまだ予習が足りねーよ」と健太郎の呟きに笑いながら頷いた。
テストの緊張が、ここにきてやっと、ほぐれた感じ。
モテるためには予習って、どうしてだろう?後で岩崎先生に聞いてみよう。
先生との間に、話題が1つ生まれた気がして嬉しくなる。見ていると、波多野さんの方は、全身全霊、岩崎先生を信じきっている様子だった。
「今日から先生に毎日会えるなんて嬉しいなぁ」
言い換えれば、かなりイカれている感じに見えた。もしかしたら、それこそが彼氏いない理由かもしれない。

岩崎先生は黒板をサッと消すと、新しい問題を3つ書いた。
「これは国立の入試問題。これを10分で」
打って変わって、クラスに緊張が走る。
「佐伯くん、出来る?」
当てられた健太郎は、ギョッと驚き、答えられず(当然)、「あ、オレ国立は食った事無いんで」と曖昧に笑った。
健太郎には無理だ。私よりデキが悪いんだもん。しかし、いつの間に、野球バカ少年・佐伯健太郎は岩崎先生と親しくなったの?
名前のインプットを不思議に思っていると、
「先生、オレ、出来ました」
自信満々で手を上げた阿東ケンジが、許されたワケでもないのに颯爽と飛び出し、黒板に向かい、サラサラと3つとも解いた。岩崎先生は何も言わずに、そのままに任せている。
阿東が解き終わると、
「うん。全部、正解」
岩崎先生の満足そうな声、阿東のドヤ顔、そのまま先生と阿東の解答演説コラボにスライドした。これまた言葉が早すぎて、シャーペンが追いつかない。
「阿東くん、君は何処を受けるの?」
岩崎先生から聞かれた阿東ケンジは、超難関有名大学をズラズラと上げている。そうだろうな、とは思っていたけれど、どうしてあんなに自信たっぷりに語れるんだろう。弁護士になりたいから法学部とか言ってるし。もし落ちたら、恥ずかしくないだろうか。阿東がすでに進路を決めている事にも少なからず驚いた。そして、阿東までも名前を覚えられている。それが1番不思議だった。
岩崎先生に、「阿東くんは1日どれぐらい勉強してるの?」と聞かれて、「かなり、てゆうか殆どです」と阿東は、しれっと答えた。周りから、ヒュ~と涼しい声が流れる。嘘くさい。それが事実なら、ドン引きだ。
「この調子で頑張れ。負けるな」
岩崎先生のエールに阿東はシニカルに笑った。阿東はどんな場合でも、自分の負けを認めるような謙虚なタイプではない。ヤツはまるで〝しつこい油〟だ。一生メインにはなり得ないというのに、いつもいつも、そのアピールの強さには辟易する。見ていると、岩崎先生は、阿東のような優秀な生徒が好きな様子に見えた。先生はみんなそうかもしれない。そういう〝ひいき〟は嫌だな。
最初のテストに30分を費やす以外、10分、5分と分刻みで問題を進んだ。岩崎先生の授業には全くムダは無かった。こっちは問題を考えるどころか、黒板や先生の言った事をノートに写すので精一杯で。
岩崎先生は解答演説をしながら黒板に書き、問題を出した大学の最近の傾向なんかを語りながらサッサと数式を消していく。ムダも無ければ、余裕も無い。
どの授業も、いつも必死でノートを取るフリをしてきた。必死に見せるには訳がある。ペンが止まっていると、余裕があると勘違いされて、当てられる心配があるからだ。何が何でも忙しそうに見せる必要があった。数学は特に。
岩崎先生の授業でフリは必要ないのだ。それだけは助かる。
今日は最速かもしれない。教科書を残りの時間で5ページも進んでいた。2学期中間の範囲が今から怖しい。必死で書いていると、ふいに周囲から、いい匂いがした。涼しげな整髪料の匂い。

見上げると、目の前に岩崎先生が立っていて、自分と目が合った。
まるで、ポッキー・チョコレート。少し日に焼けた顔。首から下はビター・チョコレートでコーティングされたような深い色合いのスーツで。
先生は、私を見てしばらく考え込み、何か言いたくて、それでもなかなか言い出せずに悩むみたいに腕組みした。当てられては困るので、私はすぐにサッと目線をノートに戻す。恐る恐る窺えば、岩崎先生はまだ目の前に立っていて、やっぱり、私を真っ直ぐに見下ろしているのだ。
「今口さん、だよね?」
私の名前までがインプットされている。
驚きながら、不思議に思いながら、「はい」と返事をした。
「今口さんは、僕の塾に来てる?」
思い掛けない事を聞かれて、唐突だなと思いながら、自分は行っていない事を伝え、
「お兄ちゃんが大学受験で栄進塾に行ってましたけど」
「お兄さん?」
「あ、でも、お兄ちゃんは岩崎先生には習っていません」
兄貴のせいで今口の名前に聞き覚えがあったのかな?と勝手に考えたのだ。ところが、「お兄さんも知らないけど」と岩崎先生は、まだまだ困惑気味である。
「君とは、何処かで会ったっけ?」
その時、隣で聞いていた健太郎が突然に立ち上がった。
「前世、キミとは何処かで会った気がするゼ……先生のナンパって、そういうやり方決定!」
周りから「ひょお~!」と、冷やかしの声が同時に起こった。健太郎が派手な身振りで踊り始めると、「ナンパ!ナンパ!」と、周囲が名前を連呼する。調子に乗った健太郎は、男子の手拍子に合わせてクルクルとそこら辺を回った。
「ちょっと、やめてよ」
私が健太郎をド突くと、ひょお~と、また一段と高く、冷やかしの声が沸いた。「やめてヨぉ~ん」「ヨメ!浮気」「ケンが悶絶」と、みんなの冷やかしの的は、健太郎と私に向ってグイグイと襲ってきた。最高に恥ずかしくて、火照る顔を必死で抑える。岩崎先生は笑いながら、騒ぐ周りを制して、
「僕を知ってるのかと思ってた。君が嬉しそうに笑い掛けるから」
「え?」
まるで呪いを掛けられたように、驚いたまま固まった。知らない。知らない。
「昨日の朝礼ん時、僕に向かって手を振ったよね?」
「そんな事、してませ」
そこで思わず、あっ!と声に出た。
それを聞いて初めて身に覚えがあった。笑顔で手を振ったその相手は岩崎先生ではない。その向こうの野球部の3年だった。もちろん、その事実を言えば、健太郎に掛かって新たな冷やかしの的になりそう。
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