溺愛執事に花嫁教育をされてしまいそうです
「……そろそろ、一つぐらい、覚えて頂いた方が
いいかもしれないですね……」
ありすは状況が理解できず、呆然と橘のことを見上げている。
ゆっくりと長いまつげを瞬かせ、
至近距離でありすの瞳を見つめる。

(橘さんって……少し目の色が茶色いんだ……)
真っ黒だと思った瞳は近づくと
かすかに茶がかった色をしている。

(綺麗な……目)
思わずうっとりと見上げてしまっていた。

次の瞬間。

「──っ」
近づいてきた橘の瞳は軽く閉じられ、
そのまま唇がありすのそれと重なる。

「んっ……」

ありすが驚愕に目を見開いている間に、それは離れ、
橘は鼻と鼻が触れ合うくらいの距離で目を開けると、
再びそれを妖艶に細めた。

その瞬間、ありすの心臓はドキンっと跳ね上がった。

(今……私……?)
今、触れ合ったのは唇だ。

……それは多分、普通の人が言うなら。

キス、というもので。

ゆっくりとありすは瞳を見開き、
それからパタリと落ちたしずくで、
自分が涙をこぼしていたことに気付く。

「──っ」
息をのんだのは……自分だったのか、橘だったのか。
ありすは言葉もなく、今触れた唇を指先でふさいだ。

「……なんで?」
目の前の橘の姿が涙で潤む。

「……すみません……」
それだけを言うと、橘は慌てて、茶器を片付けようとして、
それを指先でひっかけて落す。
柔らかいじゅうたんに茶器が音もなく転がった。

それを拾おうとして、橘は我に返ったように手を止めて、
それからゆっくりと両手でティカップを拾う。

「……今のはアクシデントのようなものです。
ただ、愛情を持ってなされたもの以外、
キスだと思わなくてよろしいと思います……。
今のも……」

その言葉を聞いて、よけい涙がこぼれてくる。
収まりのつかない涙に、橘はそっとありすを抱きしめた。

「すみません……あまりにお嬢様が可愛くて」
ぎゅっと抱きしめられると気持ちが少し穏やかになる。

ただ、ありすの頭の中では、
『愛情を持ってなされたもの』ではないキスに、
切なくて苦しい思いが湧き出てきて、
どうしようもなく、
涙が止まらなくなってしまったのだった。
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