くノ一
姫
同じ「くノ一」は1つとして存在しない。
本来の意味とは程遠い、自己主張の強い「眉」を書き上げた。
__媚びる。
香(かぐわ)しい墨と、息を呑むほどの静寂。それなのに、傍らに積み重ねられる半紙に込められた情念。
試しに1枚、めくってみる。
古い女。
もう1枚、めくってみる。
お妃が佇むも、その姿はあまりにも猛々しい。
私は、筆を置いた。
一体、どれだけ積み上げれば、私は浄化できるのだろう?どれだけ連ねれば、この望みは叶うのだろう?
遠くに師範代が見える。
険しい顔で描くのは、よもやのくノ一。決して流れることのない、忍ぶことなど無縁の女。それなのにその横には、一生を忍んで終わっても悔いなしという、喜びの文字が。
最後の口を、真一文字にしめくくる。
への字口ではあったが、そこには男や女の垣根を乗り越えた「嬉」の文字が踊っていた__。
私は再び、筆を手に取る。
嫌でも目に飛び込む、しなやかさを通り越した長い無骨な指。
美しく生まれ変わった私も、この手だけはどうしようもなかった。そして、この手から生まれる文字も、どうすることもできなかった。
女らしさを込めれば込めるほど、半紙に横たわる男の字。
男偏の漢字はないというのに。
これほど、女偏の漢字は性(さが)の渦に飲み込まれているというのに__。
喜びの文字なんていらない。
私が欲しいのは、女の字。女にだけ与えられた、特別な字。
「お手伝いしましょう」
師範代が耳元で囁いた。
私よりも細い指が、私の大きな手を包み込む。
半紙は左から。
それは、男に生まれたからには男であり、女は女らしくという世間の常識と同じ。それに抗(あらが)ってきた私なのに、つい流れされてしまった。
「書き順なんて、有っては無いようなもの」
師範代の力が、私を引き戻し、半紙の右側へ。
力強い囲いができていく。
逆らおうにも逆らえない。
最後の一画を止めあげ、男の象徴ともとれる「臣」の文字。やはり師範代は気づいているのだろう?私の文字を見、手を取り、私が成りたいものに、成れないことに__。
「いつものくノ一を」
そっと手(心)を離し、優しく背を押してくれた。
そう、私は成れないのではない。
生まれた時から、いや、生まれる前から成っていた。
もう何回、何百万と書いた「くノ一」。
心を込めるのでも、力を抜いて気取るのでもない。
姿勢を正し、ただ美しく。
ただ美しくあればいい__。
くの字にノを重ね。
最後の一で蓋をする。
これまで書いたどのくノ一よりも「女」だった。
そして私は「臣」を制圧した。
その色気と、気品によって。
私は女となる。
[姫]