不埒なドクターの誘惑カルテ
 私は急いで引き出しに入れてあったバッグをつかんで、先に出口に向かっていた束崎先生を追いかけ、会社を後にした。



 エントランスに到着したとき、時刻はすでに二十二時を回っていた。ビルには有名な飲食店なども入っているため、フロアにはまだ多くの人がいた。

 先生とエレベーターを降りると、女子会終わりの女性の集団の視線が一気にこちらに向けられた。……正確には束崎先生に……だけれど。

 ひそひそと話す声には、明らかに彼に対する好意にまみれた好奇心が感じられた。そして彼を見て、その横にたつ私を値踏みするような視線も同時に感じていた。

 居心地が悪く、早くその集団の前を通り過ぎたいと思っている私と違い、先生はそんなこと気にする様子もなく、スーツのポケットに手を突っ込んだまま、悠々と歩いている。きっと注目を浴びることに慣れていて、なんとも思わないのだろう。

 なんとなく早足になった私を、まるで保護者のように咎めた。

「ほら、そんなに急ぐと転ぶぞ。終電までまだ時間があるだろ」

「子供じゃないだから、転びませんっ!」

 ポンポンと会話をしながら歩く。束崎先生みたいな軽い男性は苦手なはずなのに、なぜか先生といると会話が途切れない。

 自動ドアの前まできたとき、外からひとりの女性が駆けこんでいた。そして「束崎先生っ!」と声をあげると、バッグを抱きしめたまま俯いて上がった呼吸を整えている。

「ちょ、ちょっと。大丈夫?」

 先生が女性の肩に手を置くと、女性は首を縦に動かして返事をした。そこから大きな深呼吸を二回ほどして顔をあげた。
 
——彼女……先生のクリニックから出てきた人だ。
 
職場巡回になかなか現れない束崎先生を探して、クリニックまでいったときに先生と一緒にいた女性だ。あらためて見ると、まだ息切れして苦しそうにしているにも関わらず、美しい人だとわかる。

「落ち着いた? 川城(かわしろ)さん」

「はい。すみません……突然。あの今、少し時間がありますか?」

 彼女はチラリと私のほうを見た。悪気はなかったのかもしれないが、どうやら邪魔らしい。

「あの、私ひとりで平気ですから。では、お疲れ様です」

 歩き出した私を束崎先生が呼び止める。

「こんな時間に、ひとりなんて危ないだろう」

「大丈夫です。いつも平気ですから。では失礼します」
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